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System of government

諸悪の根源 田布施(たぶせ)システム

田布施システムとは何ですか?

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質問者
kusokimoiibusu42さん
2014/2/2613:33:44.田布施システムとは何ですか?

閲覧数:4,220回答数:2

 ------------

ベストアンサーに選ばれた回答
asianpopqqqさん
.2014/2/2806:56:57
.「田布施システム」

田布施システムについて知ったのは
朝鮮総連本部の競売で入札した、鹿児島市の宗教法人「最福寺」の流

昨年4月に平壌で行われた「金日成キムイルソン主席生誕100周年」の記念行事に出席するなど、
何度も訪朝しているという。

北朝鮮に関わる人だと言う事
また、こんな一文に出会う

「真実を知る事は大切だよ
田布施システムが、ここまで語られたのは初めて見たし
絵空事じゃなく、真実味を帯びすぎだわ
彼らにしたら、そういう情報を共有して来たことこそ力でもあったわけだからさ
流れる多くの情報から何を読み解くかが重要

これまで、世論を左翼だ右翼だと分断工作に勤しんで煽っていたが
全ては明治時代の田布施につながり
搾取する側には、敵も味方も無かったと言うのが真実」

全ては田布施に繋がる???

「長州、薩摩にある田布施町システムは日本の闇
日本における朝鮮人部落と、イタリアにおけるアルバニア人集落は微妙に似てる
海外にも、こういう国はたくさんあるだろう

15~16世紀頃
日本の山口県、鹿児島県へ渡った朝鮮人部落
イタリアのカラブリア地方及びシチリア島へ渡ったアルバニア人集落」

田布施システム???

「鮫島正純坊主、鮫島純也、鮫島純一郎、鮫島進次郎

全部、繋がっちゃったな・・・
自民党の中枢は完全に 朝鮮総連に乗っ取られていた
この鮫島正純は 朝鮮総連大幹部」

「安倍さんおじいさんの岸さんが戦前、戦中にわたって満州人脈・朝鮮半島人脈を利用して
戦後右翼の大物と暗躍してたからな。

日本の「戦後右翼」は岸さんが半島人を中心に組織したものだからなあ。
統一協、勝共連合、はたまた金日成とも、切っても切れない縁なんだよ。

それが現代に続いている。
表面上、日本と仲は悪そうに見えるが、日本と南北朝鮮は持ちつ持たれつの構造を作ってしまった。」

「日本はいつまでその亡霊と戦わなくちゃいけないんだろうね」

「この坊主は小泉純一郎の親戚で、安倍総理の指南役だから、政府は黙認だよ。」

「池口恵観(本名 鮫島正純)は、小泉純一郎の父(鮫島純也)方のいとこで
三無事件の時は、自民党議員の馬場元治(元建設大臣)の秘書だった。」

「田布施システムかぁ。
少数朝鮮半島勢力による多数の日本土人支配の構図。
池口に本名が鮫島で小泉純一郎の親戚だとはな。
近代日本を支配してるのは朝鮮民族なんだな。」

「明治政府もナチスも中国もユ○ヤが作ったって知らないの?

アメリカがいなくなっても別の中間搾取層に変わるだけだよ

民主党、共産党、公明党、小沢、どれも日本土人の中間搾取層だ
外国のアメリカ、中国、韓国も日本土人の中間搾取層だ
その中間搾取層を選挙で選ぶわけだが、戦後政治で圧倒的な実績があるのは
自民党であったので・・・

クリーンな政治とやらを信じるには、自分のオツムがクリーンになるしかないのだが・・ 」

 ---------------ここからが謎解きです------------------

田布施というのは、山口県と鹿児島県にある田布施町の事です
そこには、朝鮮人部落がありました
明治維新の前から、日本にはたくさんの朝鮮人部落が存在していたのです

国交は無く鎖国してた江戸時代でも日清貿易、日朝貿易があって
安倍総理、小泉元総理の田布施(純粋な朝鮮人集落)の話だけじゃなく
例えば博多港なんかも外国人が昔から多く住み着いていました

博多は元寇以前から日宋貿易してたので南宋人(現在の中国人)がそこに住み着いて
部落になったという話もあります。



明治時代から、売国者の官僚・政治家が、日本の権力者の正体!

 官僚主導国家日本は明治時代から永続!

 売国者の官僚・政治家が日本の権力者の正体!

Ⅰ 現役キャリア官僚 衝撃の告発小説
  に霞が関、震撼 !

(日々坦坦資料ブログ・日刊ゲンダイ2013/9/18より抜粋転載)

霞が関全体を、一冊の本が震撼させてる。

タイトルは「原発ホワイトアウト」(講談社)。再稼働が着々と進む日本の原発に、致命的な欠陥があることを暴いた小説だ。
業界団体の反対派潰しの手法や、政治家や官僚を手なずける手練手管が臨場感たっぷりに描かれているが、この一冊はただのエンターテインメント本ではない。帯のコピーに〈現役キャリア官僚のリアル告発ノベル!!〉とあるとおり、小説の形を借りた内部告発本なのだ。

著者は「若杉冽」。もちろんペンネームだが、プロフィルには〈東京大学法学部卒業。国家公務員1種試験合格。現在、霞が関の省庁に勤務〉と書かれている。

「原発反対派で知られる自民党の河野太郎議員がきのう(17日)午前、自身のツイッターで〈登場者はみんな仮名ですが、電力、原子力業界について書かれていることはかなり真実に近く、お勧めです〉と推薦。

〈エネ庁で相当の職務経験を積んだ高官で、かつ、左遷されるなどして相当の時間的余裕がある人が疑われているようです〉と立て続けにつぶやいたことで、本の評判が一気に拡散しました。

霞が関は、いったい誰が書いたんだと、“犯人捜し”に躍起になっています」(経済部記者)

それもそのはず、登場人物も全員仮名だが、「エネ庁次長」や「規制庁審議官」といった肩書の人物が登場する。だから官僚が読めば、実在のモデルが分かってしまうというわけ。

政治家や経済界の実力者も多数登場出するが、脱原発俳優で参院議員の「山下次郎」などと、名前の語呂や肩書から実在の人物が容易に想像できる。
官僚や政治家は、今ごろ気が気でないだろう。

 Ⅱ、自民党清和会(安倍・町村の派閥)の源流。

(ブログ「心に青雲」より抜粋転載)

1、 明治維新で日本を乗っ取った、「長州藩田布施一味」

1)「朝鮮人部落」の人間が、金融財閥の家来=明治政府権力者!

鬼塚英昭氏の新著『日本のいちばん醜い日』(成甲書房)を読むと、日本国家の真相は、明治維新で「長州藩田布施一味」に国家を乗っ取られたということであることが解る。

 長州藩の田布施一味とは、「山口県熊毛郡出身の政治家」らのことである。熊毛郡の田布施町を中心にしている。ここは光市と柳井市に挟まれた寒村だった。
大室寅之祐=替え玉・明治天皇、伊藤博文、木戸幸一、宮本顕治、河上肇、難波八助、松岡洋右、安倍源基(終戦時の内務大臣)、賀屋興宣などである。むろん、岸信介、佐藤栄作、安倍晋三は、この「田布施一味の末裔」である。

 小泉前首相の父・鮫島純也は、鹿児島の田布施(現在は加世田市金峰町)出身の「朝鮮人」である。
鹿児島の田布施も山口県の田布施と同じ、「朝鮮人部落」である。
純也は、上京して小泉又次郎という「ヤクザ」(刺青大臣と言われた)の「婿養子」となって「小泉姓」を名乗り(小泉純也)、「日本国籍を取得」したのだ。

2)「ユダヤ国際金融権力」は、被差別部落の「弱み」を握って、「支配してきた」!

「週刊朝日」06年10月6日号に掲載された「家政婦は見た~安倍晋三研究」で、安倍家の家政婦の証言として、安倍晋三の父・晋太郎は、日頃から「自分は朝鮮だ」が口癖で、亡くなった時の遺骨を見ても、韓国系の体型だったと言っている。

“田布施(または熊毛郡)出身の一族郎党が、国の権力を握っている”ことに変わりはないようだ。
安倍晋三は、「統一教会と縁が深い」のだから、まさに「朝鮮半島勢力」である。

小泉の次の安倍政権、そのいずれもが「朝鮮人部落」だった田布施の出身であることが偶然であるわけがない。 
「ユダヤ国際金融権力」は、こういう人間を使って、「日本乗っ取り」を支援しながら、連中の「弱み」を握って、思い通りに「支配してきた」のだ。

ユダヤは徹底的に日本の事情=弱点を探って研究しつくしている。
例えばとして、鬼塚氏の研究によれば、幕末に英国公使パークスは、外交官アーネスト・サトウを使って日本の「被差別部落」を調査させている。

http://ameblo.jp/kichitaroaoki/entry-11618513562.html



2011.08.09 Tuesday
0

山口県田布施町の怪 ~日本国家の真相~ (上)
http://www.asyura2.com/07/bd50/msg/536.html

山口県田布施町の怪(上)
http://blog.goo.ne.jp/hienkouhou/e/7839377a3613e3d90e1198535ea65ced

《1》
鬼塚英昭氏の新著『日本のいちばん醜い日』(成甲書房)を読むと、
日本国家の真相は、
明治維新で長州藩田布施一味に国家を乗っ取られたということであることが解る。

長州藩の田布施一味とは、山口県熊毛郡出身の政治家らのことである。
熊毛郡の田布施町を中心にしている。
ここは光市と柳井市に挟まれた寒村だった。

大室寅之祐=明治天皇、
伊藤博文、
木戸幸一、
宮本顕治、
河上肇、難波八助、松岡洋右、安倍源基(終戦時の内務大臣)、賀屋興宣などである。
むろん、岸信介、佐藤栄作、安倍晋三は、この田布施一味の末裔である。

小泉前首相の父・純也は、鹿児島の田布施(現在は加世田市金峰町)出身の朝鮮人である。

鹿児島の田布施も山口県の田布施と同じ、朝鮮人部落である。
小泉純也は上京して小泉又次郎というヤクザ(刺青大臣と言われた)の婿養子となって
「小泉姓」を名乗り、日本国籍を取得したのだ。
小泉の次に安倍政権、
そのいずれもが朝鮮人部落だった田布施の出身であることが偶然であるわけがない。

ユダヤ国際金融権力は、こういう人間を使って、
日本乗っ取りを支援しながら、連中の弱みを握って、思い通りに支配してきたのだ。
ユダヤは徹底的に日本の事情=弱点を探って研究しつくしている。
例えばとして、鬼塚氏は幕末に英国公使パークスは、
外交官アーネスト・サトウを使って日本の被差別部落を調査させている。

『日本のいちばん醜い日』に益田勝実氏の文章が引用されている。

「天皇様をお作り申したのはわれわれだとは、
明治以前に生まれた長州の老人たちによく聞かされことだったが、
近代天皇制以前には、京都に天皇家はあったが、天皇の国家はなかった。

尊皇派が考えていた天皇の国家の考えは思想として獲得されたもので、現実に京都にいる天皇という実在の人物に合わせて作られたものではなかった。
かれらが求めている天皇と現実の天皇と、
いくらか融和出来るうちはよいとして、
その矛盾が激化すると、……
激化すると、天皇を取り換えてしまうほかなくなる。

わが家に空襲で焼けるまであった孝明天皇使用の皿は、
おそらくまだ長州と天皇の間がうまくいっていた、
蜜月時代にもたらされたものだろう。

奇兵隊挙兵の翌年、1866年(慶応2)の暮れには、孝明天皇は謀殺されてしまった。
もちろん、仕組んだのは江戸幕府ではない。
志士側で、天皇が倒幕の障害になりはじめたからである。

今日では、このことはもう公々然の秘密となっている。
(益田勝実『天皇史の一面』より)」

益田勝実は長州の国家老一族である。
だから田布施の住民を虐げた側というか、支配した(あるいは敵対した)側である。
その子孫である益田勝実が、
「てんのうはん」、つまり、山口県熊毛郡田布施町麻郷(おごう)に生まれ、
孝明天皇の長子睦仁の替え玉となり、
明治天皇となった真相を突いたのだ。

『日本のいちばん醜い日』では、
「大室寅之助は田布施の生まれ、……
伊藤博文(林家が伊藤家の本家)と「虎ノ門事件」を起こした難波八助は一族である。

また宮本顕治(日本共産党)も一族
そして、木戸幸一も系図に入ってくる。
京都大学教授でマルクス主義を木戸幸一、近衛文麿に教えた河上肇も一族である。
そして、大室寅之助の生家の近くに岸信介一族の生家もある。
この地から代議士の国光五郎、難波作之助が出ている。
また、元外相松岡洋右も岸信介の一族である。
あの終戦内閣の最後内務大臣安倍源基も大室寅之助の生家の近くである。

……大室寅之助が南朝の末裔であるという説があるが、
確たる証拠は私の調べた限りではなに一つない。
むしろ、北朝鮮系の被差別部落民ではないのか、と思っている。」
(「日本のいちばん醜い日」より)

明治維新から日本の国家中枢に君臨する一族には、このような真相があるのである。

鬼塚氏も書いているが、瀬戸内海の沿岸や島々には被差別部落が多い。
そこからアメリカや中南米に移民として行かされた人も多い。
「家船漁民」といって、船上で暮らす人々も瀬戸内地方には多かった。
いずれも彼らはマレーシア方面から漂着した平家系の民であろう。

源平の戦いがあった平安末期、貴族となって権勢を誇った平清盛一族は、
(八切止夫によれば)マレーシア方面から比較的新しく紀伊半島に“鉄器を持って” 漂着した部族であった。

その彼ら貴族化した平家を、
それ以前に土着していた北条氏らの平家一族が
源氏(頼朝や義経)という馬を扱える部族を使って
日本国内から放逐したのがあの源平の戦いである。

だから清盛一族側の貴族化した平家は、
海洋民族だったから騎馬戦は得意ではなく、
義経に追われると瀬戸内海を下関(壇ノ浦)まで逃げた。

当然瀬戸内海には海洋民族である土着の平家系のいわば海賊もいたのだが、
彼らは北条側の平家に就いて義経に協力したため、
貴族化した平家らは撤退せざるを得なかった。
だから源平の戦いとは、本質的に“新来の平家”と“旧来土着の平家”との内ゲバであった。

それで勝った側の北条平家は、
源氏系統=北朝鮮系を皆殺しにし、
生き残った源氏系部族人間は別所などと言われる被差別部落に追い込んだ。

おそらく瀬戸内一帯に土着していた源氏系の部族も別所などの被差別部落に押し込めて、
まともな活動ができぬように圧迫したと思われる。
その一つが山口県の熊毛郡なのであろうし、
遠く鹿児島にも同様の田布施として源氏系部落を作ったのではないか。

田布施という所は「正直いって、住むのに悪条件だらけの土地であった」と鬼塚氏は書いている。
あるいは「やたらと寺の多さに気づく」とも書いている。
権力者が寺院を使って被差別部落を抑えつけたのだろうし、
本来は白山信仰を持ち仏教には転向しない源氏系(北朝鮮系)を強引に仏教徒にしようとした痕が、
田布施の寺の群れなのだろう。

鬼塚氏は、田布施出身の大室寅之祐の家が漁業を営んでいないことを指摘している。
ということは大室家が平家ではないことを意味している。
平家系の庶民の職業は、漁民か百姓と決まっていたからだ。
鬼塚氏は大室寅之祐が北朝鮮系の被差別部落民ではないかと言っている。

「週刊朝日」06年10月6日号に掲載された
「家政婦は見た~安倍晋三研究」で、安倍家の家政婦の証言として、
安倍晋三の父・晋太郎は、日頃から「自分は朝鮮だ」
が口癖で、亡くなったときの遺骨を見ても韓国系の体型だったと言っている。

 山口県田布施町の怪(下)

http://blog.goo.ne.jp/hienkouhou/e/1c1ad0126db64c496dc1e8b573179ef5

《2》

現在の天皇家としては明治天皇=大室寅之祐の血筋は途切れたものの、
田布施(または熊毛郡)出身の一族郎党が国の権力を握っていることに変わりはないようだ。

安倍晋三が首相を辞めない(辞められない?)その傲慢さも、
彼が明治以降に日本を牛耳ってきた権力を受け継いでいるからだろう。
それに安倍晋三は統一教会と縁が深いのだからまさに朝鮮半島勢力である。
明治天皇とその取り巻きが、なにせ田布施出身の朝鮮人系統なのだから、
現実の政治はその流れに沿うのである。

終戦時(と開戦時)に外相だった東郷茂徳は、鹿児島の朝鮮人部落出身である。
本名は朴茂徳である。
鹿児島ではあるが、田布施と同じ出自なのだ。
だから昭和天皇は終戦の大事な時期に、東郷茂徳を起用した。

東郷に外交ルートを使った終戦工作、
すなわち天皇の身の保全と、天皇家の蓄財の隠蔽を命じたのである。
東郷はA級戦犯となり、服役中に病没しているが、
おそらく真相を知る人間だから消されたのであろう。

先に紹介したが、終戦時の安倍源基内務大臣は熊毛郡の出身で、
安倍晋太郎・晋三との結びつきは不明らしい(家紋は同じ)が、
大室家とは親族だという。

安倍源基は周知のように、
戦前、警察権力を一手に握った男で警視総監をやり、特高警察で君臨した。
言ってみればゲシュタポかKGBの親分のようなものだ。
権力者にとっては重要なポジションである。
これもまた朝鮮人系が握っていたのだ。

さらに。

鬼塚氏が指摘しているのは、終戦時の内閣では大分県出身者が多いという。
阿南惟幾陸相(竹田市出身)、梅津美治郎陸軍参謀長(中津市出身)、豊田副武海軍軍令部長(杵築市出身)、また重光葵(東久邇宮内閣外相)は国東半島出身。

大分県は瀬戸内海で田布施とつながっている。
この辺りは、先の家船漁民の活動範囲であって、
その交流のなかで婚姻関係が結ばれていたはずなのである。
つまり昭和天皇は同じ朝鮮人関係者で、敗戦処理を行なったのであった。

こうして見てくると、どうして明治権力が朝鮮半島に侵出したか、
しかも朝鮮半島をいわゆる植民地化せずに“内地化”して、
インフラ整備を徹底的に施し、“内鮮一致”を押し進めたかがわかる。

つまり日本が稼いだ富を祖国・朝鮮半島にせっせと注入したのだ。
また日本国内に在日朝鮮人を大量に残し、厚遇してきたかもわかる。
権力者どもにとっては同族だからだ。

わざと(ユダヤの指示で)日本国内に火種を残したとも言えるだろう。

北による拉致だってわかったものではない。
総連や北の工作員だけでなく、こうした闇のルートが拉致に介在した可能性もあるし、
現在も小泉や安倍という朝鮮系の人間が首相をやっているのだから、闇は深まるばかりだ。

こうして見てくると、話はやや飛ぶが、
「アカシックレコード」の佐々木敏氏や、
「国際情勢の分析と予測」サイトが指摘する、
日本と北朝鮮は本当はかなり親しい関係にあって、
ケンカしているように見せているのは表面的なことではないか、
との予測は当たっているのかもしれない。

冗談に聞こえるのだが、北の金日成や金正日は、
「日」の字があって、親日の意味がこもっているのだ
との説もあながち荒唐無稽な話ではないのかもしれない。

つまり、われわれは「日」といえば日本の「日」だと固く思いこんでいるが、
そうではなく、もうちょっと東アジア一帯という視点を持つと、
北朝鮮系とそれに呼応する日本の源氏系(?)との連携(=同族)を意味する言葉が「日」なのかもしれない。

「アカシックレコード」の佐々木敏氏はしきりに中朝戦争の危機を指摘している。
安倍政権は中朝戦争に反対していると言われ、
だから何がなんでも政権を維持して、
祖国(?)北朝鮮が戦争に巻き込まれないように、
あるいは中朝戦争によって東アジアの朝鮮族連合が破綻しないように、
必死なのかもしれない。

安倍政権が転覆すれば中朝戦争が必至とも予測されるなか、
韓国系やら北系やらの思惑が交錯しているのが現況なのか。
今度の朝鮮南北首脳会談もそれを受けてのこととも考えられる。

《3》
さらに鬼塚氏は興味深いことを書いている。

明治天皇の生母とされる中山慶子(つまり孝明天皇の種をもらった女性)の墓が
東京・文京区の豊島ケ岡墓所にある。
ところがこの明治天皇の生母の墓を、
明治天皇を始め皇族まで誰も参拝に行っていないのだという。

現在の中山家当主は、鬼塚氏の問い合わせに
「生母に関しては箝口令がしかれていて、一切答えられない」
と言ったそうだ。

これはつまり、明治帝がやはり孝明天皇と中山慶子の子ではないことの証明である。

生前に明治天皇は生母に会ってさえいない。
「この人間関係の冷たさがーーたとえ生母でなくても会えばいいではないかーー
日本の暗黒をより深くし、日本を太平洋戦争へと突き進ませたと思えてならなかった」と鬼塚氏は書いた。

そのとおりである。
昭和天皇も今上天皇もその他皇族も、孝明天皇の子孫と思うのなら、
中山慶子の墓を粗末にするはずがないのだ。

先に「現在の天皇家は、明治の大室寅之祐の血筋は途切れた」と書いたが、
大正天皇はどうやら大室寅之祐の子らしいが、
昭和天皇は大正天皇の子ではないからである。
西園寺八郎と貞明皇后のあいだの子とされる。

その事情を『日本のいちばん醜い日』で詳述している。
西園寺八郎は毛利家から公家の西園寺公望(元老でありフリーメースン)の養子になった人物で、
宮中深く浸透した。
大正天皇とは学習院で同級生だった。
その息子公一(きんかず)は、コミュニストでゾルゲ事件に連座したが、親(八郎)のよしみで釈放されている。

明治天皇も伊藤博文も、大正天皇に子どもができないことを知っていたので、
西園寺八郎を貞明皇后に近づけたとされる。

それを鬼塚氏は詳細に検証していく。

そして、大正天皇の子4人(昭和天皇、秩父宮、高松宮、三笠宮)はいずれも父親は別とされる。
みんな顔が似ていない。
(浩宮と秋篠宮もまったく似ていないが…)

鬼塚氏は、秩父宮が2・26事件の策を練り、
終戦時の8・15宮城事件は三笠宮が策を練ったのだと断言している。
どちらのクーデターもヤラセだった。

貞明皇后(節子*さだこ)はしきりに世継ぎに介入したとされる。
秩父宮を溺愛し、裕仁より秩父宮を天皇にしようと暗躍した。
貞明皇后は長州が嫌いだったので、
薩摩系の良子を昭和天皇の嫁にしようとして「宮中某重大事件」を起こしている。

貞明皇后は五摂家のひとつ九条家から嫁したとされるがウソで、
武蔵野のある大農家の娘だったという説と、
彼女の本名は朱貞明だという説がある。
中国か朝鮮であろう。

朱貞明は、明治政府が徳川幕府から接収した皇居(千代田城)を、高級遊郭にしたのだが、
そこに召し出された女性だという。
千代田城は「千代田遊郭」と呼ばれ、伊藤博文や大室寅之祐らが、
維新で職を失った旗本の娘から美女を選んで囲ったもので、天皇と重臣の遊び場だった。
朱貞明が長州の侍に騙されたかして千代田遊郭に入れられ、
後に大正天皇の嫁にさせられたとするなら、長州嫌いになったわけもわかる。

貞明皇后は秩父宮の妃を迎えるにあたっては、
わざわざ朝敵とされた会津藩松平家から勢津子を選んで、長州への面当てをやった。
(ちなみに勢津子のかかりつけの美容師が吉行あぐりである)
この会津から皇室への婚姻で、会津の人は喜んだというが…。

今上天皇が堂々、天皇家の祖先は朝鮮から来たんだと記者会見で言って、驚かされたが、
つまり今上天皇は、祖母の貞明皇后が朝鮮系であることを述べていたのだと思われる。

いずれにせよ、かように日本上層部は、民族的怨念と覇権を巡っての暗闘を続けているのであって、
現在の自民党や民主党ら政党の争いとか、霞ヶ関の官僚の争いも、
そうした背景を知らねば解明はできないものと思われる。

http://yasumiyama.jugem.jp/?eid=114



第2章 孝明天皇は殺された( 1 / 1 )
孝明天皇は殺された
孝明天皇暗殺は公然の秘密だった

 彼らは、また天皇(訳注 孝明天皇)の崩御を知らせてくれ、それは、たった今公表されたばかりだと言った。噂によれば、天皇は天然痘にかかって死んだということだが、数年後に、その間の消息に通じている一日本人が私に確言したところによると、毒殺されたのだという。この天皇は、外国人に対していかなる譲歩をなすことにも、断固として反対してきた。

 そのために、きたるべき幕府の崩壊によって、否が応でも朝廷が西洋諸国との関係に直面しなければならなくなるのを予見した一部の人々に殺されたというのだ。この保守的な天皇をもってしては、戦争をもたらす紛議以外の何ものも恐らく期待できなかったであろう。重要な人物の死因を毒殺にもとめるのは、東洋諸国ではごくありふれたことである。

 前将軍(訳注 家茂)の死去の場合も、一橋のために毒殺されたという説が流れた。しかし、当時は、天皇についてそんな噂のあることを何も聞かなかった。天皇が、ようやく十五、六歳になったばかりの少年を後継者に残して、政治の舞台から姿を消したということが、こういう噂の発生にきわめて役立ったことは否定し得ないだろう。

(『一外交官の見た明治維新 上』アーネスト・サトウ 坂田精一訳 234頁)

 これは、イギリスの外交官で駐日英国公使や通訳を務めたアーネスト・サトウの証言である。十四代将軍・徳川家茂、孝明天皇両者の暗殺は、イギリス人外交官の間でも知られていたことが分かる。

 孝明天皇、そして将軍家茂を謀殺したのは、誰なのか。

 家茂が死亡したのは、上洛中の1966年7月20日。その4、5日前から風邪気味で臥せっていた。すると、宮中から回されたという医者がやってくる。どうやらこの人物の名前ははっきりとはしていないようだ。孝明天皇の妹・和宮が家茂に降嫁して以来、2人の仲は良好。疑いもせず、家茂は医者の診療を受ける。医者が処方した薬を飲んでから、3、4日後に家茂は死亡した。家茂は、胸のあたりに紫色の斑点ができ、激しく苦しみながら息を引き取った。

 一方、孝明天皇は、一般には1866年12月25日に天然痘で亡くなったこととされている。12月11日頃から症状が出始めていたが、17日から便通もあり、食欲も回復し、熱も順調に下がり始めていた。21日から膿が出始め、23日には膿の吹き出しも収まって、全快に向かっていた。病状が急変したのは、25日。激しい下痢と嘔吐、最後には体中の穴等穴から出血という激しい死に様だった。

 孝明天皇は強硬な攘夷派として知られるが、和宮降嫁をきっかけに公武合体派でもあった。攘夷を実行するのは幕府という考え方に至っていたのだ。

 いわば、孝明天皇ー将軍家茂というラインが出来上がっていた。こうなってくると、困るのは薩長である。天皇が幕府と手を結んでしまえば、倒幕の大義は失われてしまう。薩長にとって、公武合体派の孝明天皇と家茂は邪魔者というしかない。両者が邪魔なのは、薩長に武器を売り支援するイギリスにとっても同じことだ。戦いが起きなければ、戦争経済を発動することはできない。日本に内戦をしかけ、騒乱を通じて利益を貪り、さらに勝ち馬を支援して、その後の日本を操っていく。これがイギリスの思惑だ。

 歴史家の鹿島曻氏は、孝明天皇、家茂の暗殺犯を岩倉具視と西郷隆盛、木戸孝允、伊藤博文ら薩長グループによる武略であり、その背後にイギリスの影ありとしている。

 鹿島氏によると、孝明天皇の暗殺には刺殺説もあるという。直接の犯人は伊藤博文と岩倉具視という当時を知る人物の遺言を発掘することにも成功している。

 長州ファイブの1人として英国留学に旅立っていた伊藤博文は、完全にグラバー、そして背後のユダヤ金融資本に洗脳されてしまっていたのだろうか。

 司馬遼太郎史観に基づく人たちから総スカンを食らいそうだが、筆者はいわゆる幕末の志士たちは、各藩の諜報者(スパイ)であり、国士と呼べるような輩ではおよそありえなかったと考えている。彼らは、総じてみな下級武士である。諜報活動のような危険の伴う仕事は下級武士の仕事だったのだろう。下級武士からしてみれば、一攫千金、成りがあるチャンスである。そのためには天皇殺しすら厭わない。残念ながら、これが現実であろう。

 伊藤博文にしても、1862(文久2)年には公武合体論を唱える長井雅楽の暗殺を画策し、山尾庸三とともに塙次郎・加藤甲次郎を暗殺している。志士というよりは、さながらヒットマンというしかない。もともと農家に生まれ父が足軽の養子となったことで、かろうじて足軽武士の地位を手に入れた伊藤にとって、これしか成り上がっていく道はなかったのだろう。

 鹿島氏は、さしたる功績もない伊藤が、維新後先輩諸氏を押しのけて君臨できたのは、天皇暗殺の首謀者であったからだと推測している。実際に武士の中でも最底辺に位置する足軽の伊藤は、明治維新と同時に参与、外国事務局判事、大蔵兼民部少輔、初代兵庫県知事、初代工部卿、宮内卿などの要職を歴任した。伊藤は幕末史において暗殺以外に重要な案件には参加していないだけに、天皇暗殺の論功行賞だったとしても納得できるのである。

 また、後年、伊藤博文を暗殺した韓国人の安重根は、動機として15の理由を挙げた。そのうちの一つに注目すべき一説があった。

「今ヲ去ル四十二年前、現日本皇帝ノ御父君ニ当ラセラル御方ヲ伊藤サンガ失イマシタ。ソノ事ハミナ韓国民ガ知ッテオリマス。」

 明治天皇の父、つまり孝明天皇を伊藤博文が暗殺し、韓国の国民の間では周知の事実だというのである。伊藤博文が孝明天皇暗殺の真犯人であるということは、この時代、日本海を越えて韓国までも流布していた一つの証拠と言えるだろう。

 もちろん、伊藤本人の自白があるわけでもなく、伊藤の犯行を裏付ける決定的な証拠や目撃があるわけではない。が、前述したように伊藤は暗殺の前科持ちだ。長州藩の鉄砲玉として、藩の謀略活動の最前線にいた。天皇暗殺に長州藩が絡んでいるとすれば、真っ先に名前が挙がってくるのが伊藤というわけだ。こうした状況証拠から伊藤暗殺犯説を主張する研究者は鹿島の他にも少なくはない。その1人、太田龍氏は、孝明天皇を祭神とする玉鉾神社を伊藤博文が弾圧していた事実を指摘する。なぜ、現天皇の父上を顕彰する神社を伊藤が弾圧しなければならないのか。これも伊藤が暗殺犯なら納得できる。

 睦仁親王も暗殺、明治天皇はすり替えられていた?

 そして、伊藤をはじめとする薩長の連中や岩倉具視らが犯したと思われる大罪は、孝明天皇殺しだけにとどまらない。家茂を暗殺したのも連中の仕業ではないかと推測するのはもちろんであるが、もっと酷い話がある。

 孝明天皇の子どもだった睦仁親王を殺害したのも彼らの手によるものではないかと考えられるのだ。もちろん、正史上では睦仁親王はそのまま明治天皇となっている。

 ネット上では、明治天皇すり替え説として広く知られている。山口県田布施町にある大室家とは南朝の末裔とされ長州藩が代々、保護してきた。その大室家のある人物・大室寅之祐が睦仁親王とすり替えられて、そのまま明治天皇となってしまったというわけである。

 孝明天皇を暗殺した側からすれば、犯行を隠し通すには周囲を買収したとしても息子の存在は大きな障害となるだろう。攘夷志向の強い天皇の息子だけに、都合良く操れるとは限らない。何よりも天皇殺しについて沈黙はしなかっただろう。

 それでは本当にすり替えられてしまっているのか。睦仁親王と明治天皇は、使用前使用後のごとく立ち居振る舞い、見た目がことなっているという証言がある。

 睦仁親王は天然痘にかかったことがあったが、明治天皇にはその痕跡はない。

 睦仁親王は女官に囲まれて大切に育てられたためか弱々しい性格だったようだ。13歳だった1864年7月の「禁門の変」のときは、砲声と女官たちの悲鳴に驚いて失神してしまった。ところが、明治天皇は馬を乗りこなし馬上から近衛兵を閲兵し、大声で号令をかけるなど、堂々としたものだった。もちろん睦仁親王が乗馬をした記録は残っていない。

 また、睦仁親王は性格だけでなく肉体的にも虚弱体質であり、毎年のように風邪をこじらせていた。十代半ばの思春期となっても女官たちと一緒に遊技に興じていたという。一方、明治天皇は体重24貫の巨軀。側近と相撲をすれば、投げ飛ばすほどの馬力を誇った。

 睦仁親王は16歳となっても書は下手だったが、明治天皇は達筆。

 このように、16歳の睦仁親王と明治天皇の間には、明らかに断絶があるようだ。父の孝明天皇同様に暗殺されてしまったと考えるのが自然だろう。

 もちろん、明らかなすり替えがあるわけではなく、暗殺の確かな証拠が残っているわけではない。

 だが、孝明天皇暗殺よりも濃厚な疑惑が漂うのである。

 その一つが、明治天皇の正妻「昭憲皇太后」だ。この表現を見て、「あれ?」と思わないか。通常、天皇の后妃であれば、本来は「昭憲皇后」となるべきところだ。皇太后は天皇の母や先帝の后妃に付けられる。しかも、明治天皇と昭憲皇太后の間には1人も子どもが生まれていない。それだけではない。会った形跡すら残されていないのだ。

 しかし、これも睦仁親王と明治天皇が別人なら納得できる。すり替えが事実なら、睦仁親王は先帝となり、昭憲皇太后は睦仁親王の后妃だ。だから、明治天皇にとっては皇太后となる。暗殺犯=維新の重鎮は、昭憲皇太后にはよくよく言いくるめ、沈黙の人生を送らせた。

 そして、もう一つ。明治天皇は本来、北朝の天皇のはずである。ところが、明治期、南朝の見直しが進み、南朝正統説が政府の見解とされた。足利尊氏は後醍醐天皇を裏切った逆賊となった。北朝であるはずの明治天皇の統治下において、著しく不可解な出来事である。大正15年に発令された皇統譜令では、正式に南朝の正統を政府が認め、南北朝時代の光厳天皇から後円融天皇までを皇統系譜から外してしまったほどだ。

 南朝天皇家として大室家のほかにも熊沢天皇、三浦天皇が知られる。その一家の当主、三浦芳堅が昭和初期、田中光顕・元宮内大臣を訪れたときの田中の言葉が、三浦の著作『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』に載っている。この中の一説が、『天皇の伝説 天皇にまつわる秘史とロマンを旅するノンフィクション』中の鹿島氏の文章(「天皇は二人いた!!」)だ。

 実は明治天皇は孝明天皇の皇子ではない。(中略)実は明治天皇は、後醍醐天皇第十一番目の皇子満良親王の御子孫で、毛利家の御先祖、即ち大江氏がこれを匿って、大内氏を頼って長州へ落ち、やがて大内氏が滅びて、大江氏の子孫毛利氏が長州を領有し、代々長州の萩に於て、此の御王孫を御守護申し上げてきた。これが即ち吉田松陰以下、長州の王政復古御一新を志した謹皇の運動である。

 吉田松陰亡き後、此の謹皇の志士を統率したのが明治維新の元老木戸孝允即ち桂小五郎である。此の桂小五郎と西郷南州とを引き合わせて遂に薩長を連合せしめたのは、我が先輩の土佐の坂本龍馬と中岡慎太郎である。

(『天皇の伝説 天皇にまつわる秘史とロマンを旅するノンフィクション』26頁)

 田中は、「我々はこの南朝の御正系をお立てして王政復古するのだ」という桂小五郎の言葉に南朝の忠臣菊池氏の子孫だった西郷が深く感銘して薩長連合が成功したと続ける。坂本龍馬の門下生だった田中の言葉だけに信憑性がある。

 明治維新は王朝交代でもあったのだ。天皇殺し、皇子殺し、将軍殺しという連続殺人と天皇すり替えという大掛かりな謀略が大政奉還直前に進行していたのだった。

 坂本龍馬の暗殺もこの流れの中で考えられるだろう。グラバーに育てられた龍馬は当初は、深い真相も知らされないままユダヤ金融資本の意向通りに倒幕へと動いていたが、結局、直接対決を避け公武合体の道を探り出した。日本人同士相争わず内戦を避けようと奔走した。龍馬は邪魔になった。

 果たして、これらの大仕掛けを足軽上がりの下級武士たちだけで考えられたであろうか。失礼ながら、彼らは鉄砲玉の実行部隊だった。

 龍馬を操り、薩長の下級武士を欧州留学に送ったのがグラバー(ロスチャイルド家の下僕)だったことを思い起こすべきである。シナリオライターはグラバーらを中心とするユダヤ国際金融資本だったと考えれば、維新後の遣欧使節団などを考えても、すべての筋道が通る。

 そして、表向き民間人だったグラバーに加え、英国公使も謀略側の一味だったことはいうまでもないだろう。そうなってくると、アーネスト・サトウの日記もあたかも自分は暗殺に無関係だというアリバイの主張のようにも思えてくる。

 大室寅之祐天皇については、ネットでは様々な分析がなされている。そのうちの一つには、寅之祐は大室家の養子であり南朝の末裔などではないという説もある。

 それによると大室家が南朝後裔を自称するようになったのは文政時代のことであるが、幕末に断絶している。大室寅之祐は大室家に嫁いだスヘの連れ子であり、南朝の血筋などつながっていないというのだ。

 これが事実とすると、明治維新の邪悪な目論見が透けて見えるようだ。悲しいまでの茶番である。日本を換骨奪胎させて統治する。この邪悪さこそ、ユダヤ国際金融資本の持つ専売特許なのである。長州とユダヤの歪んだ関係がその後の日本の針路を決めた。それは、現在に至るまで続いていると言えるのかもしれない。

 「明治の新政府ができてまもなく、十六歳の少年天皇が、わがままをして“元勲”の言うことをきかないと、西郷隆盛は、『そんなことではまた昔の身分にかえしますぞ』といって叱りつけた」

  (『実録天皇記』大宅壮一)

 読むと日本人として悲しくなってくる話だが、どこの馬の骨とも分からぬ輩を現人神に祭りあげて国民を騙してきたのが、残念ながら明治維新の真実だったのか。幕末の騒乱に策を弄してユダヤ国際金融資本の下男と成り果てることで権力の座に成り上がった元勲たちが、すり替えた明治天皇を自由に操って国を統治した。

 そのインチキぶりに欺瞞を感じた西郷は政府から離脱して、やがて叛乱軍の烙印を押されて滅んだ。一方、明治天皇は大酒飲みで、結果的には糖尿病と尿毒症というから今風に言えば糖尿病性腎症から腎不全を発症して61歳で亡くなった。国民全体を欺いていたという事実が、酒を浴びるように飲まずにはいられないほどのストレスとなっていたのではないか。

 後の章で検討するが、日本は第2次世界大戦前は英国、戦後は米国の属国であった。とくに1985年のプラザ合意以降はバブル演出&崩壊、対日年次改革要望書の丸呑み、そして今度のTPP参加強要による永久属国化と、米国の意図するがままに従ってきた。その姿はまるで同前だが、こうした体たらくの根本的な原因は明治天皇のすり替え隠蔽にあるのではないかと考えている。これは謀略中毒症の米国にとってみれば、絶好の脅しネタである。

 ジャーナリストの鬼塚英昭氏は『瀬島龍三と宅見勝「てんのうはん」の守り人』において、大室寅之介の出身地である田布施周辺出身の有力者やその秘密を握り守っていく集団による統治体制を“田布施システム”と呼び、解明している。いま日本政府に求められるのは、明治天皇すり替えの事実を天下に公表してしまうことだろう。そこに突破口がある。

http://forkn.jp/book/3006/page/2



2012/07/05 に公開

おかかえ歴史家がひた隠しにている日本の真相。 スキャンダルで操られるご皇室と政治の中枢。日本人に冷淡で朝鮮人に優しい日本政府の­わけ、「韓日友好、天皇崇拝」を掲げる右翼などの原因がここにある。



世界最古の家族の企業

 The world's oldest family companies

聖徳太子はまだ立って仏教四天王寺を構築するために1、400年以上前韓国から日本に金剛ファミリーメンバーをもたらした。何世紀にもわたって、金剛亀尾は16世紀の大阪城を含む多くの有名な建物の建設に参加しています。

 Prince Shotoku brought Kongo family members to Japan from Korea more than 1,400 years ago to build the Buddhist Shitennoji Temple, which still stands. Over the centuries, Kongo Gumi has participated in the construction of many famous buildings, including the 16th-century Osaka castle.

今日家族が構築し、宗教的な寺院を修復し、その大阪本社から一般契約を管理し続けています。現在の社長は敏隆金剛です。彼の51歳の息子、正和金剛は、翼で待っている。

 Today the family continues to build and repair religious temples and manage general contracting from its Osaka headquarters. Current president is Toshitaka Kongo; his 51-year-old son, Masakazu Kongo, is waiting in the wings.

http://www.griequity.com/resources/industryandissues/familybusiness/oldestinworld.html

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画像の説明

http://www.kongogumi.co.jp/



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英国日本国大使館 / Embassy of Japan in the UK

 英国の「長州ファイブ」の到着150周年
 150th anniversary of the arrival of the ‘Choshu Five’ in the UK
 -日英の学術の相互作用の150周年 -
 - 150th anniversary of UK-Japan academic interaction -

画像の説明

http://www.uk.emb-japan.go.jp/en/event/2013/choshu/info.html

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フリーメーソン:サイレント駆逐艦 - テンプル騎士団に基づくdeist宗教的カルト

Freemasons: The silent destroyers - deist religious cult based on the Knights Templar

http://bilderberg.org/masons.htm



日本統治下の朝鮮
Korea under Japanese rule

http://en.wikipedia.org/wiki/Korea_under_Japanese_rule

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