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イエズス会が常に背後にいる / Always behind the Jesuit
【ウィキで調べる暴力団(笑) 東京タワーが建てられた本当の理由】
2013/09/30 21:52
こんにちは、今回は読者の方からのご質問にお答えする記事になります。
今回の記事はほとんど加筆することなく、Wikipediaだけで纏めています。
私は、Wikipediaに書かれている事が事実であるという事と、私が先生に教わった補足のみ、付け加えさせていただきます。
まず、小泉氏。
はっきりとヤクザの家系と書かれています。
(Wikipediaより)
■稲川会
稲川会(いながわかい)は、東京都港区六本木に総本部を置く日本の指定暴力団。構成員は約4700人。準構成員を含めると約9100人。
鶴岡政次郎網島一家五代目総長の代貸であった稲川角二が1949年に静岡県熱海市の山崎屋一家を継承するとともに「稲川組」を結成。それから各地に勢力を拡大しつつ、「鶴政会」、1963年に「錦政会」、1965年に「稲川一家」と順次改称。そして1972年をもって「稲川会」へ名を変えた。
* 小泉純一郎元首相の選挙対策本部長である竹内清(前神奈川県議会議長)は稲川会横須賀一家の系列組員であり、石井隆匡と非常に親しく、上下関係の厳しいヤクザの世界にあって葬儀で最初に焼香するなど、肩書きこそ堅気という事になってはいたが非常に密接な関係であった。また息子の小泉進次郎と共に写っている写真が掲載されるなど、小泉父子の選挙区であり、横須賀一家の本拠地でもある神奈川県横須賀市では、両者の結びつきはきわめて強い。
■小泉組(こいずみぐみ)は現在の神奈川県横須賀市で活動していた土木請負業であった。小泉又次郎は、口入れ屋家業から土木請負業の“小泉組”をつくった。港湾都市から勃興した近代的なヤクザ組織の代表格としても知られている。
概要
武蔵国久良岐郡六浦荘村大道(現在の神奈川県横浜市金沢区大道)のとび職、小泉由兵衛が明治初期、横須賀に移住し、海軍の軍艦に石炭、砲弾、食糧、労務者などを送り込む請負師となった。
作家の宮崎学によると、明治17年(1884年)に海軍鎮守府が置かれ、軍港として急速に発展した横須賀では「軍艦に砲弾や燃料の石炭、食糧などを積み込む仲仕の組織が発達し、これを仕切る仲仕請負からやくざ組織が生まれていった」という。
当時の横須賀では目兼の大親分と小泉組が、沖仲仕の手配師として縄張りを競い合い、博徒たちのにぎやかな出入りがくり返されていたという。縄張り争いを制したのは、「近世以来の古い型の博徒」である目兼組を抑えた新興の小泉組であり、跡目を継いだ息子の小泉又次郎(小泉純一郎の祖父)がこの帰趨を決定的にした。宮崎は小泉組について、「吉田磯吉と同じ時期、同じ環境から生まれてきた近代ヤクザのひとつにほかならない」と述べている。
『人事興信録. 第9版』(昭和6年)によれば、小泉岩吉は神奈川県下の多額納税者に列し直接国税二千七百十八圓を納めている。
仕事の種別
* 建設業
* 沖仲仕
* 手配師
* 人材派遣
手がけた施設
* 横須賀海軍工廠
特に、第6船渠の建設に従事したことで知られる。同船渠は軍縮条約後の戦艦建造に備えて1935年建設が決定し、7月その掘削に着手した。この構築のため蠣ヶ浦一帯の丘を掘削し、土砂150万立方メートルを運び出して松ヶ原海岸と海兵団沖の埋め立てに使用された。1940年5月には艦艇の建造が一応は可能な程度に進捗し、大和型戦艦3番艦の信濃が起工された。太平洋戦争の戦局進展に伴い、空母への改造が決定、ほぼ完成までの工事を行った。閘門の取り付けは1942年である。戦後は他の施設同様米海軍に接収され現在に至る(詳細は上記項目参照)。
■小泉 由兵衛(生没年不明)は、日本のとび職人、請負師。神奈川県平民。
元逓信大臣小泉又次郎の父。元首相小泉純一郎の曾祖父。衆議院議員小泉進次郎・タレント小泉孝太郎の高祖父。
経歴
武蔵国久良岐郡六浦荘村(現在の神奈川県横浜市金沢区)の代々のとび職だったが、のちに横須賀に進出して、海軍に労働者を送り込む軍港随一の請負師になった。
明治17年(1884年)に海軍鎮守府が置かれた横須賀は、日清戦争(1894~1895年)から日露戦争(1904~1905年)にかけて軍港として急速に発展したが、ここでも、軍艦に砲弾や燃料の石炭、食糧などを積み込む仲仕の組織が発達し、これを仕切る仲仕請負からやくざ組織が生まれていった。
当時、横須賀でこの仲仕の仕切りでしのぎを削ったのが、博徒の目兼組と鳶の小泉組であった。
この縄張り争いは、近世以来の古い型の博徒である目兼組を抑えて、新興の小泉組が制していく。
そして、この小泉組を率いていた鳶の親方・由兵衛が跡目を継がせた息子の又次郎がこの帰趨(きすう)を決定的にし、小泉組は軍港のやくざとして一大組織を築くことになった。
又次郎は家業を嫌って家出をした。由兵衛は連戻された又次郎を怒鳴りつけて、「此(こ)の寧馨児(ねいけいじ)、よくも出奔(しゅっぽん)する。お前は長男だから何としても家を相続せねばならないのだ。今日限り魂を入れ替えて家業を継げ!」と厳命した。
明治20年(1887年)、又次郎は立憲改進党に入党した。由兵衛は「こうなっては仕方がないが、とうとう倅(せがれ)一人を台無しにした」と嘆(なげ)いたという。当時の又次郎は特に立憲改進党へのこだわりはなくシンパというわけでもなかった。たまたま由兵衛と親しかった戸井嘉作の誘いを受けての入党だった。
小泉家
(神奈川県久良岐郡六浦荘村(現横浜市金沢区)、横須賀市)
* 妻・徳(神奈川県平民、岡崎文五郎二女)
*息子
又次郎(神奈川県平民、とび職人、小学校助教員、新聞記者、政治家)
金三
岩吉(神奈川県多額納税者、土木建築請負業) - 小泉組を継いだ。
兄・又次郎同様、背中にみごとな入れ墨を入れた岩吉は、又次郎の度重なる無心にもいやな顔ひとつ見せず、必要な金を必ず用立てたという。
(Wikipediaここまで)
ね、ちゃんと書かれていますよね?
次は住吉会について、これは名無し先生からの補足(ヒント)無しでは語れません。
名無し先生のヒント
「敗戦国である日本で、好き勝手をしていた、戦勝国側である、中国、韓国、台湾の在日不良達を、弱小であった日本警察の代わりに要請を受けて、治安維持、掃討、逮捕までを行った銀座警察=住吉会住吉一家大日本興業。」
これらのヒントを元に浮かび上がって来たのが、日本青年社です。
徹底的に反共主義です。
(Wikipediaより)
日本青年社(にほんせいねんしゃ)は、指定暴力団住吉会傘下の右翼団体。住吉会住吉一家小林会を母体とする。最高顧問は住吉会総裁・西口茂男。現在でも複数の議員を地方議会に送り続ける力量を持ち、単一団体としては日本最大規模。東京都港区六本木に総本部を置いている。
綱領
*我々は高貴なる日本の国体と歴史に基づき政治と文教を粛正し国権と領土を回復して平成維新を実現し万世の為に大平を開く道義国家を建設する。
*我々は祖国を愛する同胞の情熱と団結を以て内外の不正と戦い占領憲法とポツダム体制を打破し必ず国体を明徴にする。
*我々は自らを厳しく戒め楠公精神を慕う若き日本人として勇敢にして礼儀正しく廉潔にして信義を重んじ己の任務に私心なく挺身する。
来歴
1961年(昭和36年)、右翼団体・楠皇道隊が発足。当初、日本最大の右翼団体であった全日本愛国者団体会議(全愛会議)内の、児玉誉士夫に忠実な実行部隊だった青年思想研究会(青思会)に加盟していた。その後、独立路線に転じ、1969年に日本青年社へ改称。日本最大規模の組織力をもって、各地の地方議会に議員を送った。
1978年には尖閣諸島魚釣島に灯台を建立。以後27年にわたる保守点検と実効支配に取り組み、2005年2月に政府の申し出を受け、国に無償委譲するに至った。
愛知県西尾市三ヶ根山頂上にある殉国七士廟の奉賛活動を行うなどもしている。
■住吉会(すみよしかい)は、東京都港区赤坂に本拠を置く博徒系指定暴力団。米政府より薬物や武器の密輸、人身売買等の犯罪に関与する国際犯罪組織と認定されている。
勢力範囲は1都1道1府16県、構成員は5,900人であり準構成員を含めると約12,800人。(2012年2月時点)
住吉一家を中心とする、歴代の住吉一家総長を重んじる組織である。
会内で住吉一家の傘下でない組織は幸平一家のみとなっている。
明治初期、初代“伊藤松五郎”が東京芝浦一帯で博徒「住吉一家」を結成したのがその前身としている。
組名は“伊藤松五郎”が東京日本橋"住吉町"出身であることからつけられた。
その後、横浜の沖仲仕であった阿部重作が1918年(大正7年)頃に東京都内を本拠地として『住吉一家二代目』を結成。
これを直接の起源とする。
以後、『港会』、『住吉会』、『住吉連合』、『住吉連合会』と順次改称、1991年(平成3年)をもって再び『住吉会』へと名を変え、西口茂男を首領に据えた。
「住吉一家」の唱える系譜では住吉町の爺さんと呼ばれた伊藤松五郎が初代となっている(異説あり)。
二代目を中里一家の出身で「今大前田」と呼ばれた倉持直吉(本名は荏田村秀)が継承。住吉一家の客分で、洲崎の武部申策をオヤジと呼んだ芝浦の高木康太の代貸であった阿部重作が1948年に三代目を継承した。
1962年、上萬一家貸元であった磧上義光が四代目を継承。
1967年、中里一家四代目・堀 政夫が五代目を継承。
堀は1982年、住吉連合代表住吉一家五代目総長から「住吉連合会」に改編して会長に就任。
1988年には同会総裁に昇格するが、1990年10月に病死した。
1991年2月、住吉一家向後二代目・西口茂男が六代目を継承し、住吉連合会を「住吉会」に改称して会長に就任。
1998年6月、西口が住吉会総裁に昇格。2005年4月17日、住吉会会長・福田晴瞭が七代目を継承。
(Wikipediaここまで)
ある意味、日本を守ろうとして活動している印象が強いのですが、裏ではやはり、警察権力との闇取り引き、敵であるはずの中・韓・台の不良どもとのドロドロの関係があり、パチンコ利権も絡み、すっかり飲み込まれ、本来の意味を無くしてしまったのが銀座警察です。
最後に山口組と四日市コンビナート
山口組(やまぐちぐみ[3])は、兵庫県神戸市に本部を置く暴力団で、日本最大規模の指定暴力団。 その構成員数は2010年の時点で約20,300人、準構成員数は約16,100人の合計約36,400人であり、その人数は全暴力団構成員・準構成員数約85,200人のうちの46.3%を占めている。[2]
組員は同年の時点で1名の組長(親分)、7名の舎弟(弟分)、79名の若中(子分)から成る計87人。組長を除き、これら86名の舎弟と若中は直参(直系組長)と呼ばれ、それぞれが数十人から数千人の構成員を抱える組織の首領となっている。
“山口”の二文字を菱形の意匠とした“山菱”(やまびし[4])と呼ばれる代紋を用い、広島県と沖縄県を除く45の都道府県に系列組織を置いている。
(中略)
山口組若中・組織委員 菱田達之 二代目愛桜会 三重県四日市市
Wikipediaには書かれていませんが、この話のポイントは、四日市が福井藩の所有地だったという事。
福井藩第14代藩主 松平春嶽の頃です。
この山菱=山口組が四日市のコンビナートを仕切ったということです。
これはさすがにWikipediaでは出ませんね。
富山藩が加賀藩の支藩であることが書かれたWikipediaの文章を下記に貼付けます。
越中:戦国末期には両国の前田利長と佐々成政が争った。その後羽柴秀吉により、越中は前田利長に与えられ、江戸時代の越中は加賀藩とその支藩である富山藩に統治されていた。
唐突ですが、東京タワーのオーナーは誰だったか?
東京タワーのオーナーは前田家です。
東京タワーの建主であり、管理ならびに運営は日本電波塔株式会社(にっぽんでんぱとう)が行っている。
1957年5月、「大阪の新聞王」と呼ばれ当時は産業経済新聞社、関西テレビ放送、大阪放送(ラジオ大阪)各社の社長を務めていた前田久吉により設立。久吉はタワーの完成とほぼ同時の1958年、産経新聞社を国策パルプ工業(現・日本製紙)社長水野成夫に譲渡してその経営から手を引いたが、東京タワーとラジオ大阪の経営には引き続き携わった。この結果、日本電波塔は当時の産経新聞グループはもちろん、その後のフジサンケイグループからも完全に切り離されて前田家主導の同族企業となった。なおラジオ大阪も2005年にフジサンケイグループ入りするまで、前田家主導で独自の経営をしていた。
前田家は、安土桃山時代のキリシタン武将で有名な前田氏の加賀藩での家柄。
加賀前田家、美濃前田家、 尾張前田家 (与十郎家)、 尾張荒子前田家とあり、系譜として、尾張荒子前田家、加賀藩本家、富山藩、大聖寺藩、大聖寺新田藩、七日市藩とある。
Wikipediaのキリシタン大名・キリシタン武将、ま行にも載っています。
*前田秀以(パウロ) - 前田玄以の長男。
*前田茂勝(コンスタンチノ) - 前田玄以の次男。
隠れキリシタン=イエズス会の後押しがあった。というのも当時、ザビエルがイエズス会から派遣されたという史実から、説明する必要は有りません。
後押しとは、軍艦や武器の輸入に関わっていたということ。
以前の記事に書きましたが、ジャーディン・マセソン商会横浜支店に養子に行った子が吉田茂です。彼の養子先は福井藩。
1881年(明治14年)8月に、旧福井藩士で横浜の貿易商(元ジャーディン・マセソン商会・横浜支店長)・吉田健三の養子となる。
ジャーディン・マセソン商会は小火器、ヴィッカ―ズは軍艦担当の武器商社コンビ。
ビッカーズ・アームストロング社は英国のロスチャ、ヘッセン系の軍艦製造業の会社です。
日本の軍艦「金剛」は、ビッカーズから三井物産を仲介として、福井藩が日本政府に売り付ける為、仕入れた。
そして、前田家という北陸は加賀藩の田舎大名が東京タワーのオーナーになる程の力を持っている。
加賀藩、福井藩、富山藩、共にイエズス会の後押しで軍艦や武器の輸入を商売にしていた。
福井藩と加賀藩の支藩である富山藩。
本家は加賀藩。
吉田家は大久保利通の親戚筋です。
大久保利通の息子、牧野伸顕の長女・吉田雪子が元総理大臣吉田茂の妻です。
あまり知られていませんが、別々に考えがちな薩摩藩と福井藩ですが、婚姻関係で、繋がっているのです。
しつこいですが、ジャーディン・マセソン商会横浜支店に養子に行った子が吉田茂。
イエズス会が常に背後にいる。
GPSの無い時代、日本には東京タワー(333メートル)より高い電波塔として他に、対馬にオメガタワー(455メートル)、小笠原南鳥島にロランタワー(411メートル)というものがありました。
これら2つの塔は軍事目的の電波塔だということは説明の必要は無いと思います。
その証拠に、GPSの普及に合わせて2塔とも、取り壊されています。
では、東京タワーはどうだったのでしょうか?
当然ですが、記述の2つの塔同様、東京タワーも軍事目的で立てられたのです。
朝鮮戦争の時、ちょうど間に山があって電波が飛ばなかったから。
朝鮮戦争が終わった後も、米軍艦は富山湾に監視の為、駐留しました。
前田が東京タワーのオーナー。
徳川幕府が終わる時の数々の戦争に、武器供給をした商社は前田を挟んだ福井、富山。
朝鮮戦争に米軍が行く時も富山湾から出る。
富山湾の米軍艦と横須賀基地の通信をする為に東京タワーを建てた。
日本で最初の頃の石油コンビナート基地である四日市は福井藩の飛び地(所有地)
これが事実ですから、ちゃんと計画があって物事は進むんです。
燃料補給もちゃんと考えて。
それでは。
megalodon.jp/2014-1213-1104-22/jfcoach.blog49.fc2.com/blog-entry-208.html
***
世界史が教えてくれる広島・長崎原爆までのプレリュード
こんにちは、前回記事での、公開出来ない事を公開、削除という取り乱した行動、お詫びいたします。
本当に注意して記事にしなければいけません。
それと、私のブログを転載しているブログをいくつか知っていますが、未知との遭遇までノラリクラリの著者の方には、ご協力いただき、本当に感謝しています。
ありがとうございました。
さて、日本が明治維新から軍国主義化し、第二次大戦で原爆を投下され軍国主義が終わるのですが、ここに至るまでの長い長い背景を書こうと思います。
ここに書くのは200年前に始まる話です。
しかし、本当はもっともっと昔から日本を利用しようとしていた歴史が有りますが、きりがないので、今回は200年前から書きます。
200年前です。まさか、そんな昔の事は関係無いだろうと思われるでしょうが、説明してみます。
時は1815年
ワーテルローの戦い
1815年6月18日にイギリス・オランダ連合軍およびプロイセン軍が、フランス皇帝ナポレオン1世率いるフランス軍を破った戦いである。ナポレオン最後の戦いとして知られる。
この戦いで、ナポレオンが負けるのですが、その敗因の一つに、部下であり、ワーテルローの戦いでも当然活躍を期待されていたニコラ=ジャン・ド・デュ・スールトがあります。
ニコラ=ジャン・ド・デュ・スールト(Nicolas-Jean de Dieu Soult, 1769年3月29日 - 1851年11月26日)は、ナポレオン戦争期に活躍したフランスの軍人、元帥。史上6人しかいないフランス大元帥の1人。後には政治家となった。日本では姓はスルトとも表記される。ダルマティア公爵。
ナポレオン麾下でも指折りの優秀な将軍であり、特に機動戦に優れた野戦指揮官だった。しかし戦略的視野には欠け、また組織を管理統率する手腕にも問題があった。冷静沈着だが冷酷なまでに非情な人物でもあり、大変な俗物で地位、名声、金銭など非常に貪欲だった。スペイン戦線での略奪、虐殺は後々まで語りぐさとなっており、ウェリントンも「スールトはマッセナ以下である」と断じている。しかしながら結局ナポレオンの麾下で最も功成り名を遂げたのは、スウェーデン王(カール14世ヨハン)となったベルナドットを除けば彼である。
ビスマルクは「スールトは私の母親の愛人で、300人委員会のメンバーであったスールトのおかげで私はドイツ内で偉大になれた」という発言を遺している。
この戦いの1年前の1814年のフランス戦役ではナポレオンは圧倒的に不利な状況の中、彼の最高傑作といわれる程の戦術的技量を示した。だが、この1815年戦役では肉体的な衰えを見せており、何よりも時間を浪費しがちで戦機を幾度も失っている。長年、ナポレオンの参謀総長を務めたベルティエがナポレオンの復位に馳せ参ぜずドイツで自殺しており、代わってスールト元帥が総参謀長に就任したことも打撃となった。スールトは優れた野戦指揮官であったが、参謀畑には不慣れであり、ナポレオンの簡潔にすぎかつしばしば意味不明瞭な命令を適確に解釈して完璧な命令文書に仕上げるベルティエの特別な能力も持ち合わせていなかった。この結果、スールトは幾度も不手際や意味不明瞭な命令文書伝達を繰り返し、その度にフランス軍の作戦行動を鈍らせている。戦後、ナポレオンはスールトを「よい参謀長ではなかった」と述懐している。
ルイ=アレクサンドル・ベルティエ
ナポレオンとの決別
ロシア遠征は、ベルティエにとっても、ナポレオンにとっても転機となった。ボロジノの戦いにおける作戦会議で、両者の意見は食い違い衝突した。これ以降、ナポレオンは彼を遠ざけるようになった。それでもナポレオンに従い続け、帝国が崩壊していく中でも参謀総長としての義務を果たし続けた。
ナポレオンが退位すると、ベルティエは彼の元を辞した。その後、ルイ18世の下へ向かい、王制を支持して、パリ入城にも従った。ナポレオンがエルバ島に囚われの身となっている間、ベルティエの下に脱出計画を知らせる手紙が届き、旧主に対する忠誠と現在の立場の板ばさみとなって大いに悩んだ。エルバ島からナポレオンが脱出すると、ベルティエは窓から身を投げて自殺した。ただし、事故死という説や暗殺されたという説もある。
要するに、ベルティエが暗殺され、スールトがナポレオンを欺いた為に負けた可能性が高いのです。
誰がベルティエを殺したのか?
ナポレオン・フランスが勝利するとマズかったのは誰だったのか?
ネイサン・メイアー・ロスチャイルド(Nathan Mayer Rothschild, 1777年9月16日 - 1836年7月28日)は、ドイツ出身のイギリスの銀行家。ドイツ語読みではナータン・マイアー・ロートシルトと読む。
マイアー・アムシェル・ロートシルトの三男であり、ロンドン・ロスチャイルド家の祖にあたる。
1815年のワーテルローの戦いは、ナポレオンが勝てばイギリスのコンソル公債は暴落し、イギリスが勝てば逆に高騰するだろうと言われていた。ネイサンはロスチャイルド家の素早い情報伝達体制を駆使して、いち早くイギリス勝利の情報を掴んだ。ロスチャイルド家の優れた情報収集体制は金融界に知れ渡っていたから、みなネイサンの同行を注視していた。そこでネイサンはまず公債を売った。それを見た他の投資家たちはイギリスの敗戦を確信し、一斉に売りに入った。公債が暴落したところでネイサンは急遽莫大な量の買いに入った。イギリスの勝利の報告が入ると公債は急騰し、ネイサンは莫大な利益を上げることに成功した。これは「ネイサンの逆売り」として伝説化した。
あまりにも有名なお話です。
このネイサン・ロスチャイルドの親父がマイアー・アムシェル・ロートシルト。
マイアー・アムシェル・ロートシルト(独: Mayer Amschel Rothschild、1744年2月23日 - 1812年9月19日)は、ドイツの銀行家。ヨーロッパの財閥ロートシルト家(英語読みでロスチャイルド家)の基礎を築いた。
フランクフルトで古銭商人としてスタートし、ヘッセン=カッセル方伯(ヘッセン選帝侯)家の御用商人の銀行家となったことで成功のきっかけを掴み、ナポレオン戦争で大きな財を成した。
ナポレオン戦争
1806年10月にナポレオン・ボナパルト率いるフランス軍がプロイセン王国侵攻のついでにヘッセン選帝侯国にも侵攻してきた(マイアーが暮らすフランクフルトもこの侵攻の際にフランス軍によって占領された)。ヘッセン選帝侯ヴィルヘルム1世(ヘッセン=カッセル方伯ヴィルヘルム9世。1803年にヘッセン選帝侯となっていた)は11月1日にもシュレースヴィヒ公国に国外亡命することを余儀なくされた。ナポレオンはヘッセン選帝侯家を君主の座から追う旨と、その財産はフランス大蔵省が法的継承人になる旨を布告した。
選帝侯から財産管理の秘密代理人に指定されたのはビュデルスだったが、彼は大手銀行に任せるとフランス当局に見つかる恐れが高いと考え、ロートシルト家に任せることを決めた。以降、マイアーと息子たちはフランス当局の目を盗んで各地を駆け回り、選帝侯の諸侯への債権の回収し、選帝侯へ送り届けた。しかし送り届けるのは一部だけだった。マイアーが選帝侯のもとを訪れて「フランス当局の監視を潜り抜けて殿下のもとまで送り届けるのはますます難しくなっている」と説得し、ロートシルト家に投資信託させたのである。
一方でロートシルト家はフランス側とのコネクションも深めていき、フランス当局やフランス傀儡国家ライン同盟盟主でフランクフルト大公であるカール・テオドール・フォン・ダールベルク、フランクフルトの郵便制度を独占しているカール・アレクサンダー・フォン・トゥーン・ウント・タクシス侯などと親密な関係を築いた。これによりヨーロッパ大陸に独自の通商路を確保し、また情報面で優位に立ち、大きな成功に繋げていった。
折しもナポレオンの大陸封鎖令のせいで大陸諸国ではイギリスやその植民地からの輸入に頼っていた綿製品、毛糸、煙草、コーヒー、砂糖、染料などが品不足になっており、価格の高騰を招いていた。他方イギリスではこれらの商品の価格が市場の喪失により暴落した。そこでロンドンのネイサンは選帝侯から預かっている巨額の資金を元手にこれらの品を安く大量に買って大陸へ密輸し、マイアーと4人の息子が大陸内で確立しているロートシルト家の通商ルートを使って各地で売りさばくようになった。これによってロートシルト家は莫大な利益を上げられた上、物資不足にあえいでいた現地民からも大変に感謝された。
ナポレオンが勝つと困ったのはヘッセン=カッセルだった。
ベルティエを殺し、スールトを指揮官に変え、ナポレオン・フランスを敗戦に陥れた。
ただ、それだけでは済ませないのがヘッセン。
タクシスの郵便制度を買い取り、イギリスとの貿易でも大儲けをした。
さて、上のスールトに関しての文章で、読み流しては行けない一行が有ります。
ビスマルクは「スールトは私の母親の愛人で、300人委員会のメンバーであったスールトのおかげで私はドイツ内で偉大になれた」という発言を遺している。
ビスマルクは1815年4月1日、プロイセン王国ブランデンブルク県に属するビスマルク家所有の土地シェーンハウゼンにおいて生まれた。父は地主貴族(ユンカー)フェルディナント・フォン・ビスマルク。母はその妻ヴィルヘルミーネ・フォン・ビスマルク(旧姓メンケン)。
このヴィルヘルミーネ・メンケンの愛人がスールト。
ビスマルクはスールトのおかげで偉大になったと発言。
普通、愛人の子供を嫌う事は有っても、かわいがる人はそういません。
ビスマルクは普通に考えて、スールトの子供であったと考えます。
ナポレオン・フランスを裏切った人間とその愛人の間に生まれたのがビスマルク。
そして、本当の父親であるスールトは300人委員会のメンバーであったと言っています。
ビスマルクがフリーメイソンのメンバーであったという事は有名。
そのビスマルクが普墺戦争でハノーファーに勝利しヴェルフ基金を手に入れます。
ハノーヴァー家(House of Hanover)は、ドイツのヴェルフ家(ブラウンシュヴァイク=リューネブルク家)の流れを汲む神聖ローマ帝国の諸侯の家系で、1692年に成立したハノーファー公国(選帝侯国、後に王国)の君主の家系であったが、1714年にステュアート朝に代わってイギリスの王家となり、ハノーファーとイギリスの君主を兼ねる同君連合体制をとった。ハノーファーではサリカ法を採り、女子の継承を認めていなかったため、1837年のヴィクトリア女王のイギリス王即位をもって同君連合を解消し、ハノーファー王家はイギリス王家から分枝した。
1901年のヴィクトリアの死後は、夫(王配)であったアルバート公の家名を取って、サクス=コバーグ=ゴータ朝と称される。第一次世界大戦中に、敵国ドイツ帝国の領邦ザクセン=コーブルク=ゴータ公国の名が冠されている家名を避け、1917年に王宮の所在地ウィンザーにちなみウィンザー家と家名を改称した。これらは別項で扱うが、ヴィクトリアの血統が断絶したわけでないため、ハノーヴァー朝の継続と見なされることもある。
ヴェルフ基金とは、テンプル騎士団側の簿外資金の一部です。
テンプル騎士団が解散させられた後はいくつかのグループ、国に分散されました。
ポルトガルやスコットランドを経てロンバルディアを経由し、ロンドンのザ・シティーに集まった簿外資金。
ギリシアからドイツ騎士団側に奪われた簿外資金(オリンピックの裏資金も含む)。
カスティーリャ、アラゴン側に流れた簿外資金。
メディチを通って、ヴェルフ、ハノーファーへと流れドイツ騎士団側に奪われた簿外資金・・・・様々なルートを辿りました。
こうした中で現在のベルベットファシズムの裏資金として動いているのが、第一次世界大戦後に国際機構側の凍結を免れ彼らに残った簿外資金です。
プロイセン王国は、ハノーファー王国その他に対する補償金ならびに個人資産を押収し、それを国庫には入れずに、いわば受託資産として受け入れ、この受託資産から揚がる収益を『ヴェルフ資金』と称して任意に使った。
『ヴェルフ資金』の一部はハノーファー、カッセルなどの旧領地の公共事業資金として使用され、残りを外務省と内務省で分割した。
当初は公共事業資金の割合は大きかったのだが、時間とともに縮小された。外務省分と内務省分については当初から機密扱いだったので、詳しい詳細はわからない。
また、1883年1月5日の皇帝命令で、それまでの証拠書類はすべて焼却されてしまったので、ルートヴィヒ二世王への秘密資金を証拠立てる資料はすべて消え去ったように見える。
ところが実は、(多分ビスマルクの助平根性で)『ヴェルフ資金』は継続したから、1883年1月5日以降の資料が残った。
ドイツ国内ハノーファー王国の資産をビスマルクが没収し、その後の資金源に充てました。
これがパイクのいう3つの世界最高評議会側の資金源になりました。
アルバート・パイク、ジュゼッペ・マッツィーニとはフリーメイソンで繋がっていました。
このビスマルクの資産運用を任されていたのが、ゲルゾーン・フォン・ブライヒレーダー。
ゲルゾーン・フォン・ブライヒレーダー (独: Gerson von Bleichröder, 1822年12月22日 - 1893年2月18日) は、プロイセン王国のユダヤ系宮廷銀行家。宮廷ユダヤ人の代表的な人物。
フランクフルト・ロートシルト家(英語読みでロスチャイルド家)の傘下でブライヒレーダー銀行を経営した。
1859年、ドイツ連邦プロイセン全権公使だったオットー・フォン・ビスマルクは、駐ロシア大使に左遷され、フランクフルトを離任することになったが、この際にフランクフルト・ロートシルト家当主マイアー・カール・フォン・ロートシルト(ドイツ語版)の晩餐に招かれた。そこでブライヒレーダーを紹介されたビスマルクは以降彼を個人銀行家に指名し、自身の財産管理を任せるようになった。
ブライヒレーダーはビスマルク個人の財産の多額の立て替えをし、株式についての助言を行った。また国政の経済政策面でも宰相ビスマルクの顧問として活躍した。普仏戦争でのフランス政府との賠償金交渉ではビスマルクの命で非公式の交渉を行った。参謀総長モルトケの部下たちはこれを疎ましく思い、ブライヒレーダーのことを「宰相の御用ユダヤ人(des Kanzlers Privatjude)」と呼んで蔑視していたという。
普墺戦争でヘッセンは負け、ハノーファー同様、併合されてしまう訳ですが、それは表向きのヘッセンです。
ビスマルクの背後にブライヒレーダー、その背後にロスチャイルド、その一番奥にヘッセンがいるのです。
ヘッセン=ナッサウ州の旗はオランダの旗と全く同じです。
ヘッセンはナッサウ、ハノーファーとしてオランダに、イギリスに、ルクセンブルクに、ギリシャに、ロシアに・・・数えきれない国々に隠れています。
例えば下記の様に、どっちが勝ってもヘッセン=ナッサウになる。
ニコラウス・ヴィルヘルム・ツー・ナッサウ(Nikolaus Wilhelm zu Nassau, 1832年9月20日 ビーブリッヒ城、ビーブリッヒ - 1905年9月17日 ヴィースバーデン)は、ドイツ・ナッサウ公国の公子。ルクセンブルク大公アドルフの異母弟、スウェーデン王妃ソフィアの同母兄である。
ナッサウ公ヴィルヘルムとその2番目の妻でヴュルテンベルク王子パウルの娘であるパウリーネの間の息子として生まれた。フランス軍の士官となり、1859年に第2次イタリア独立戦争に従軍している。
1862年にギリシャ王オソン1世が廃位されると、イギリスの首相パーマストン卿によって次のギリシャ国王の候補に立てられた。パーマストン卿は帝政ロシアとの結びつきの強い国王を選ぶのが適切と考えており、大勢の親族がロシア帝室に嫁いでいるニコラウスが適当と映ったのである。しかしフランス皇帝ナポレオン3世は、自国の士官がクリミア戦争で交戦して日も浅いロシア帝国との結びつきからギリシャ王になるのは不愉快だとして、これに反対した。結局、ギリシャ王位に就いたのはグリュックスブルク公爵家の公子ヴィルヘルム(ゲオルギオス1世)であった。
ゲオルギオス1世
デンマーク国王クリスチャン9世の次男クリスチャン・ヴィルヘルム・フェルディナント・アドルフ・ゲオルク(Christian Wilhelm Ferdinand Adolf Georg、ギリシア語: Χριστιανός Γουλιέλμος Φερδινάδος Αδόλφος Γεώργιος)として、首都コペンハーゲンで生まれた。デンマーク王子時代は、父方の祖父グリュックスブルク公フリードリヒ・ヴィルヘルムと母方の祖父ヘッセン=カッセル=ルンペンハイム方伯ヴィルヘルムに因んだ“ヴィルヘルム”の名で呼ばれていた。
1852年に、父が嗣子のいないデンマーク国王フレゼリク7世の継承者に選ばれ、一家はデンマーク王子ならびに王女の称号が与えられることとなった。兄はデンマーク王フレゼリク8世、姉にイギリス王エドワード7世の王妃アレクサンドラ、妹にロシア皇帝アレクサンドル3世の皇后マリア(ダウマー)、ハノーファー王国の元王太子エルンスト・アウグストの妃テューラ、弟にヴァルデマーがいる。
ヴィルヘルムはデンマーク海軍の士官として活躍するようになったが、1863年3月30日にオソン1世の後継者としてギリシャ国王に選出され、父より7ヵ月半先に王位に就くこととなった。
家族
1867年にロシア皇帝アレクサンドル2世の弟コンスタンチン大公の娘であるオリガ・コンスタンティノヴナ(ギリシャ語名オルガ)と結婚し、サンクトペテルブルクで挙式を行った。
夫妻は8人の子をもうけた。
*コンスタンティノス1世(1868年 - 1923年) - ギリシャ国王
*ゲオルギオス(1869年 - 1957年) - クレタ島総督。ロシア皇太子ニコライ(のちのニコライ2世)と共に訪日した際、大津事件に巻き込まれたが、随伴の日本人車夫達に加勢して共にニコライを救った。
*アレクサンドラ(1870年 - 1891年) - ロシア皇帝アレクサンドル2世の息子パーヴェル大公と結婚。ラスプーチン暗殺者であるドミトリー大公の母
*ニコラオス(1872年 - 1938年)
*マリア(1876年 - 1940年) - ロシア大公ゲオルギー・ミハイロヴィチと結婚。のちペリクレス・ヨアニデスと再婚。
*オルガ(1881年) - 生後3ヶ月で夭折
*アンドレオス(1882年 - 1944年) - エディンバラ公フィリップの父
*クリストフォロス(1888年 - 1940年) - アメリカ人富豪メイ・リーズと死別後、ギーズ公女フランソワーズと再婚し、一人息子ミハイルがある。
ここには家系図は書きませんが、上記の人々は当然ながらヘッセンの血族。
そしてヴェルフ基金がビスマルクの手に収まるとっくの昔、1689年の時点で既に名誉革命でオラニエとしてイギリスの王となり、その後、スコットランドと一体化しグレートブリテンとなり、アイルランドを植民地化後併合。そしてハノーファーとしてイギリス乗っ取りを完了していました。
イギリス王家にはヘッセンという家名は入ってませんが、オラニエ、ハノーファーの中にいる。
感心させられます。
実に巧妙です。
1689年当時の日本は鎖国中。
しかし、オランダと中国だけは貿易していました。
ここでいう中国人というのは、客家人のことです。
そう、柳生一族です。
客家人はシルクロードの各地、特に山岳地域に根を張って移動しましたから、情報ネットワークは繋がっていた。
したがって15~6世紀にオランダを含む欧州情報が、日本の柳生家まで届けられていたのです。
将軍家は、こうした他の誰も知らぬ情報を入手できる一族を、取り立てないはずが在りません。
当然他の部族が持たぬ武器、戦術も持っていた訳です。
こうしたシステムで様々な国で、客家人は国家の重鎮に取りたてられている訳です。
要するにカラスの真のルーツはこれ。
朝廷側の重責を担う秘密機関がカラスで、将軍側が柳生だった。
両者ともに客家人。裏では通じていたということ。
ヘッセンが得意とするからくりです。
そして、カラスの情報を得たオランダは、後の19世紀になり、徐々に開国及び通商を要求し始めます。
先程のギリシャ王の話で出てきましたイギリスの首相パーマストン卿ヘンリー・ジョン・テンプル。
ザ・グレート・ブリテンを象徴するこの人物もやはりフリーメイソンです。
いろんな戦争を仕掛け、敵国に不平等条約を押し付けるのです。
また、奴隷制反対派だったとWikipediaに書かれていますが、これは嘘というか間違いです。
パーマストンはアルバート・パイク、ジュゼッペ・マッツィーニ、ケイレブ・クッシングらと共に南北戦争を引き起こした人物です。
奴隷反対派として、奴隷解放の気運をつくりだし、アメリカを南北に割いて戦わせた。
このパーマストンが日本の開国に大きな影響を与えたなんて全く知りませんでした。
あと、参考までにもう一人のジュゼッペを紹介しときます。
ジュゼッペ・ガリバルディ(イタリア語: Giuseppe Garibaldi, 1807年7月4日 - 1882年6月2日)は、イタリア統一運動を推進し、イタリア王国成立に貢献した軍事家である。イタリア統一を進めるため、多くの軍事行動を個人的に率いた。ヨーロッパと南米での功績から「二つの世界の英雄」とも呼ばれ[1]、カヴール、マッツィーニと並ぶ「イタリア統一の三傑」の一人とされる。
1860年、千人隊(赤シャツ隊)を組織してシチリアの反乱を援助し両シチリア王国を滅ぼした。その後、征服地をサルデーニャ王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世に献上してイタリア統一に大きく貢献した。その後は政治家となることなく、余生をカプレーラ島で送った。
赤シャツ隊ですよ・・・
話を戻します。
アヘン戦争勃発
阿片禁止の報を受けたイギリス本国はパーマストン子爵の主導で開戦論に傾き、1839年10月1日にメルバーン子爵内閣の閣議において清遠征軍の派遣が決定された。パーマストン子爵は、1840年2月に現地に派遣する外交官や海軍に対して主要港を占領して揚子江と黄河を封鎖して不平等条約締結を清政府に迫るよう訓令した。1840年6月より始まった戦争はイギリス軍の圧勝に終わり、1842年8月には中国半植民地化への第一歩となった不平等条約南京条約が締結された。領事裁判権、公行制度の廃止、上海・寧波・広州・福州・廈門の開港、開港地の租借権、香港の割譲などを清に認めさせた。
クリミア戦争
クリミア戦争の戦況は、クリミア半島セヴァストポリ要塞の戦いでロシアの堅い守備に阻まれて苦戦を強いられていた。パーマストン卿が目下やらねばならないことはクリミア戦争に道筋をつけることであった。
1855年9月、ついに英仏軍はセヴァストポリ要塞を陥落させることに成功した。ナポレオン3世はこれを機に戦争終結の交渉に入ることを希望するようになった。ロシアも同要塞の陥落直後には交渉で不利な立場に立たされることを嫌がって継戦の姿勢を示していたが、1856年に入ると終戦を望むようになり、譲歩の姿勢を示すようになった。
講和をめぐって彼が主導権を発揮することはできなかったが、女王からは4月11日に「戦争が終結し、この国の名誉と利益がパリ条約によって守られたことに満足の意を示します。これもパーマストン卿の熱意と指導力の賜物です。そこで女王は卿にガーター勲章を贈ります」とする書簡を送られた。イギリス臣民のガーター騎士団の人数には24名という定数があり、騎士団員が死んで席が空かない限り、新しい騎士団員を任命することはできないが、パーマストン卿は特例として席が空くまでの暫定として「特別騎士(extra Knight)」に叙されることになった。
アロー戦争
1856年10月、香港総督は、清国官憲がイギリス(香港)籍船舶アロー号に入ってきて中国人12名を海賊容疑で逮捕した事件を口実にして、香港駐屯イギリス海軍に広東への攻撃を開始させた。その報告を受けたパーマストン子爵は直ちに香港総督の武力行使に追認を与え、自分が全責任を負うと通達した。
1858年5月に大沽砲台を占領して北京を窺い、6月には清に天津条約を締結させた。だが清政府にとってこの条約は北京陥落を防ぐための便宜的手段であり、条約を守る姿勢を見せなかったため、一度撤収した英仏軍は再び北進を開始し、1860年8月に大沽砲台を再度陥落させ、今度こそ北京を占領した。これにより清は天津条約以上に厳しい条件の北京条約を締結する羽目になった。清は巨額の賠償金、天津など11港の開港を認めることとなった。
アロー戦争中の1858年8月、天津条約締結で一時暇になっていた英国艦隊を日本に派遣し、「応じないなら50隻の軍艦で攻めよせる」と江戸幕府を脅迫して不平等条約日英修好通商条約を締結させることにも成功している。
パーマストン子爵恐るべしです。
パーマストン子爵に関して書けば、ラッセルの事も書かなくてはいけないのですが、ここでは割愛させていただきます。
そして、ここで重要なのがパーマストン子爵に協力したサスーン。
インドを拠点として活躍して来たバグダットのユダヤ人。
サスーンがインドの麻薬をアヘンを中国に入れた。
サス―ンはこのユダヤ人迫害を逃れバクダットに移り、さらにはバグダットでもユダヤ人迫害でアジアに移りました。
スペインに起源を持つセファルディムの出身で、父サレハ(Sason Ben Saleh)はバグダードのパシャの主任会計を勤め、同市のユダヤ人コミュニティーを率いる資産家だった。その後ダウード・パシャによるユダヤ人迫害を逃れてペルシャを経て一家でボンベイに移住し、1832年にサスーン商会を設立、イギリスの東洋貿易に多大な貢献をした。特に阿片戦争のきっかけとなった当時のアヘン貿易において重要な位置を占めていた。その後は香港、上海にも営業所を構える。さらに、南北戦争によりアメリカ産綿花の輸出が途絶えたのを機にインド産綿花の輸出も成功させた。これらの功績が認められて1853年にイギリス国籍を取得。
アヘン戦争、南北戦争の裏でイギリスに貢献した人物。
清国はアヘンの輸入を拒んで、アヘン戦争になった。
インドはベルファシにとって大変重要で、イエズス会の中継地点でもあった訳です。
そして、インドはユダヤ人の長い長い歴史が有るのです。
ベネ・イスラエル(Bene Israel)とは、インド原住のユダヤ人を指す言葉である。ヘブライ語では『イスラエルの子』を意味する。
最も有名なアジア系ユダヤ人は、「ブナイ・イスラエル(B'nai Israel)」と呼ばれるボンベイのユダヤ人である。この共同体はインドの約1500年前にまで遡る。その中心はボンベイ(ムンバイ)とコーチン(コチ)であった。
今日インドのユダヤ人は軍、政府、産業、で重要な位置にあることが多い(例:インド人民党の安全保障顧問と、ゴア州・パンジャブ州知事を務めたJFRジェイコブ中将など)。
インドのカースト制度はこのイスラエルの氏族が作ったシステムだということ。
アヘン王サスーンの出身地バクダットは、タガーマ州があるバクダットのことです。
アブラハムの・・・高天原「たかまがはら」・・・いや、なんでもないです。
バクダット=バビロニア
この種族は古くからインドにいるんです。
この種族は世界中でカースト制を引いて、寄生し、勢力拡大。
日本も同じようなカースト制度。
階級が決まっていて、絶対にそれは崩れない。
やり方が巧妙なので、私たちが気が付かないだけ。
バグダットを追われ、ペルシャを追われ、インドのポンペイで儲けて、香港に来て、アメリカ(バミューダ)に行ってます。
これは、パオ(包)に香港利権を奪われたから。
ロスチャイルドの下でサスーンとパオに分けて仕事が割り振りされる訳です。
サス―ンがパオに香港利権を奪われ本拠地を米国バミューダに移していなければ、満州国にイスラエルが出来ていた可能性があった。
迫害されたユダヤ人ですから、香港にいたら間違いなく自分の定住の場所を満州に求めた事でしょう。
それはヒトラーの役割が大義名分作りであったように、サスーンにはそんな大義名分が有りました。
パオに香港利権を取らせたのも筋書きの内で、サス―ンを米国バミューダに行かせるよう仕向けたと言う事です。
ヘッセン(マウントバッテン)は、その筋書きでパオを香港で勝たせ、サス―ンは米国へ、そして現在の米国経済界のユダヤ資本全盛があり、ネオナチに繋がる。
そしてブナイ・ブリス、ブラックメーソンと相まってイスラエル支援グループが出来る。
現在の中東情勢を作り上げた訳です。
ネットでは、こぞってユダヤ叩きが行われ、第2のナチ活動が起きても不思議ではない。
今のユダヤ陰謀論はサスーンが大きく貢献しています。
その裏でネオ河豚が計画されている。
日本勢によって・・・
話を戻します。
さて、ワーテルローの戦いからロスチャイルド、そしてビスマルクに繋がり、日本に繋がるのが長州藩。
藩閥の内閣総理大臣
* 伊藤博文(長州藩)1・5・7・10代目
* 黒田清隆(薩摩藩)2代目
* 山縣有朋(長州藩)3・9代目
* 松方正義(薩摩藩)4・6代目
* 大隈重信(佐賀藩)8・17代目
* 桂太郎(長州藩)11・13・15代目
* 山本権兵衛(薩摩藩)16・22代目
* 寺内正毅(長州藩)17代目
* 田中義一(長州藩)26代目
このリストの長州藩出身者の家系(子女)が悪いと言っているのではありませんからね。
山縣有朋、伊藤博文はビスマルクに傾倒していましたね。
伊藤博文
明治4年(1871年)11月には岩倉使節団の副使として渡米、サンフランシスコで「日の丸演説」を行う。明治6年(1873年)3月にはベルリンに渡り、ドイツ皇帝ヴィルヘルム1世に謁見し宰相ビスマルクと会見し、ビスマルクから強い影響を受けた。
大蔵兼民部少輔を務めた際には、大隈重信と共に殖産興業政策の一環として、鉄道建設を強力に推し進め、京浜間の鉄道は、明治5年5月7日(1872年6月12日)に品川 - 横浜間で仮営業を始め、同年9月12日(1872年10月14日)、新橋までの全線が開通した。
当初、伊藤が新政府に提出した『国是綱目』が当時新政府内では極秘裏の方針とされていた版籍奉還に触れていたために大久保利通や岩倉具視の不興を買い、大蔵省の権限を巡る論争でも大久保とは対立関係にあった。また、岩倉使節団がアメリカで不平等条約改正交渉を始めた際、全権委任状を取るため一旦大久保と共に帰国したが、取得に5ヶ月もかかったことは木戸との関係も悪化した(改正交渉も中止)。
だが、大久保・岩倉とは西欧旅行を通して親密になり、木戸とも後に和解したため、明治6年(1873年)に帰国して関わった征韓論では「内治優先」路線を掲げた大久保・岩倉・木戸らを支持して大久保の信任を得るようになった(明治六年政変)。この後木戸とは疎遠になる代わりに、政権の重鎮となった大久保・岩倉と連携する道を選ぶ一方、盟友の馨と共に木戸と大久保の間を取り結び、板垣退助とも繋ぎを取り明治8年(1875年)1月の大阪会議を斡旋する。明治4年(1877年)に木戸が死去、同年に西南戦争で西郷隆盛が敗死、翌5年(1878年)に大久保も暗殺された後は内務卿を継承し、維新の三傑なき後の明治政府指導者の1人として辣腕を振るう。
明治12年(1879年)9月に「教育議」を上奏し、教育令発布となる。
明治14年(1881年)1月、日本の立憲体制をどう作るか馨や大隈重信と熱海で会談。しかし大隈が急進的な構想を内密に提出、独走するようになると政界追放を決め工作に取り掛かり、10月14日の大隈下野で目的を果たし、明治23年(1890年)に国会を開設することを約束する(明治十四年の政変)。伊藤の漸進的な提案が通り、黒田清隆・西郷従道ら薩摩派とも提携したことで事実上伊藤が中心となる体制が出来上がった。一方で井上毅が岩倉の指示を受け、大隈案への対抗からプロイセン憲法を元にした憲法の採用を提案した時は退けたが、これは毅が憲法制定を焦り、外国憲法をどう日本に定着させるかについて具体的に論じていないことと、上役の伊藤に憲法制定を促すなど分を越えた動きをしていたからであった。
明治15年(1882年)3月3日、明治天皇に憲法調査のための渡欧を命じられ、3月14日、河島醇・平田東助・吉田正春・山崎直胤・三好退蔵・岩倉具定・広橋賢光・西園寺公望・伊東巳代治ら随員を伴いヨーロッパに向けて出発し、はじめベルリン大学の公法学者、ルドルフ・フォン・グナイストに教示を乞い、アルバート・モッセからプロイセン憲法の逐条的講義を受けた。後にウィーン大学の国家学教授・憲法学者であるローレンツ・フォン・シュタインに師事し、歴史法学や行政について学ぶ。これが帰国後、近代的な内閣制度を創設し、大日本帝国憲法の起草・制定に中心的役割を果たすことにつながる。
ローレンツ・フォン・シュタイン
カール・マルクスは1842年のシュタインの著作『今日のフランスにおける社会主義と共産主義』から社会主義・共産主義思想を学び、私淑しながらも自らの思索を深めていった。
もう説明する必要は無いですが、ネットではこれを、日本はフリーメイソン=ロスチャイルドをマスターマインドにして語っているのです。
しかし、何百回でも言いますが、ロスチャイルドはマスターマインドでは無く、本当のマスターマインドが背後にいる。
それが、イギリスをはじめとする多くの国の王室に入り込んでいるヘッセン=ナッサウなのです。
イルミナティ、フリーメイソン、イエズス会、コミュニスト、コミンテルンといった組織は、その道具に過ぎない。
これ以降が前回の記事に書いた、日英同盟以降のロマノフの財宝略脱に利用される日本です。
前回の記事では列強に翻弄される日本を描きました。
同じフリーメイソンであるペリーの来航が有り、アメリカ南北戦争で使われた武器が日本に渡り、アメリカ、イギリス、ドイツ、フランス等が戦争指導まで丁寧に施されて、日本は内戦に陥れられました。
明治維新があり、イエズス会のテリトリーにフリーメイソンが加わって、日本は軍国主義に傾き、日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦で勝たせてもらい、第二次世界大戦で原爆を食らい・・・
しかし、日本の中央は本当に列強に翻弄されたのでしょうか?
それともグルだった?
日本の中央に巣食っている連中、日本カースト制度の頂点から三番目ぐらいの層は、戦争責任をも追求されないところであぐらをかいています。
裕仁の事では無いですよ。
以前に書きましたね。
ハウスホーファーを使いヒトラーを洗脳したやつらですよ。
卍会、ミドリ十字、大本、緑龍会、チベット、那智の滝、台湾、客家、元台湾の日本元帥。
ゲルマン騎士団、トゥーレ協会、国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)・・・
①ヒトラーを洗脳しオカルト化したのはハウスホッファー
②ヒトラーはチベットに興味を示し、頻繁に調査団を派遣している。
③ハウスホッファーは日本駐在武官の時代に、日本で緑龍会の会員だった。
④緑龍会とは、日本皇室始祖鳥(カラス)の一派である。
⑤その下に大本教=紅卍会がある。
⑥ハーゲンクロイツ鍵十字は紅卍会から来ている。
そして、これらの流れは、敗戦から70年が過ぎた現在でも脈々と受け継がれていて、いつ何時、再び世界大戦に陥れられるか分からない状況に有るのです。
何故なら、卍会のような連中は、日本での既得権益をあまり享受出来ない。
だから、満州なんです。
そこで、新たな支配体制を作りたい。
それを防ぐ為にも、いたずらな陰謀論に騙され、希望を無くし、ベルファシの思い通りにならぬ様、私は名無し先生のご指導のもと、本当の事を書いているのです。
我々一人一人が、世の仕組みを理解し、共有する事が、何よりも大事な事なのです。
神社、寺、坊主、政府、税金、天皇家、電力会社、農協、病院、パチンコ、マスコミ、知れば知る程、日本を嫌悪するのですが、私はそれはそれで良いと思っています。
カースト・ジャパンは毒されています。
だから、それをもっともっと知り、愛すべき我が日本をどう立て直すのか?という議論がネットに溢れかえる日が来る事を夢見ています。
さもなければ、私たちは再び、神風といった馬鹿げた神話を信じ込まされ、戦闘機で自爆し、人間魚雷で自爆し、自決し、遠くはなれた南国で餓死し、最後は核兵器で木っ端みじんにされるのです。
考えてみてください。
上記の狂気のいずれもが、日本の指導者の命令、もしくは仕業だったのですから・・・
それでは
おまけにするには不謹慎ですが、参考資料です。
第二次世界大戦中に戦死・行方不明になった軍人及び民間人の数です。
軍人と民間人の合計が合わない不完全な資料ですが、参考まで。
皆さんはどう分析しますか?
http://jfcoach.blog49.fc2.com/blog-entry-277.html
***
ヒトラーを洗脳しナチス結成に繋げた”緑の始祖鳥”
② 客家との繋がり
こんにちは、今回も”緑の始祖鳥”についてなのですが、”「世界紅卍会は中華民国全土に広がった道院」せっかくここまで云ったのに、台湾、客家までは言及しなかったのですね?”というアドバイスが有りました。
ヒントはくれるのですが、決してすべて教えてくれないのが名無し先生。
いつもここから旅が始まるのです。
自分で書いた記事にもありますように、客家とは、アジアのユダヤ人と呼ばれる、アジア政財界の支配者です。
http://jfcoach.blog49.fc2.com/blog-entry-162.html
(自分自身の記事転載)
客家人の一覧(はっかじんのいちらん)
客家語を母語とする客家人は、漢民族の集団の一つととらえられる民族集団で、中国・台湾の国外で暮らす華僑(在外華人)人口の約3分の1を占める。客家を含む華僑はユダヤ人・アルメニア人・印僑と共に四大移民集団の一つと言われる。また、中国のユダヤ人と呼ばれることもある。
[中国本土]
孫文:中華民国初代総統
宋慶齢:孫文夫人
宋美齢:蒋介石夫人
朱徳 :中国共産党初代元帥
鄧小平:元中華人民共和国中央軍事委員会主席
葉剣英・葉選平:元中国共産党元老・元広東省長の父子
廖承志;元中日友好協会会長
李鵬 :元国務院総理
朱鎗基:元国務院総理
郭沫若:全人代副委員長、文学者、元中日友好協会会長
[香港]
李嘉誠・李沢楷:長江実業グループ(香港最大の財閥)の総帥・IT産業牽引(息子)
胡文虎・胡仙:タイガーバーム創設者/星島日報グループ創設者・現総帥(娘)
〔台湾]
李登輝:第8~9代総統
陳水扁:第10~11代総統
呂秀蓮:第10-11代副総統
馬英九:第12~13代総統(現)
王永慶:台湾プラスティック・グル〜プ(台湾最大の財閥)総帥
[シンガポール]
リー・クァンユー(李光耀):初代首相、現顧問相、南洋客属総会の永久名誉顧問
ゴー・ケンスイ(呉慶瑞) :元第一副首相、鄧小平と親密。
ゴー・チョクトン(呉作棟):第2代首相、現上級相。
リー・シェンロン(李顯龍):第3代首相(現職)、南洋客属総会顧問。
[タイ]
チン・ソポンパニット・チャトリ・ソポンパニット:バンコク銀 行グループ創業者・現総帥(息子)
タクシン・チナワット、インラック・シナワトラ元首相、現首相(娘)。
チナワット家 は1860年に広東省から渡来。
アピシット・ウェーチャチーワ:元首相、
[マレーシア]
ロバート・クオック(郭鶴年):クオック・グループ(シャングリラホテルなど)総帥
ロイ・ヒャンヒョン(雷賢雄)、ロイ・ティックガン(雷徳雁):
マーポーグループ(マレーシア最大の金融会社)の創業者と現総帥(息子)
[インドネシア]
スドノ・サリム(林紹良)とアンソニー・サリム:サリムグループ創業者と現総帥(息 子)
ジュハル・スタント(林文鏡):スドノ・サリムの片腕
ワヒド元大統領: 500年前に福健省から渡来
[ミャンマー]
ネウィン:ビルマ(現ミャンマー)初代大統領。
[フィリピン]
コラソン・アキノ、ベニグノ・アキノ3世:第11代大統領と第15代大統領(現)。
コラソンの曾祖父が1861年に福健省から渡来。
(自分自身の記事転載終わり)
前回の記事で気がついた方もおられるでしょうが、シャングリラとは?
「時輪タントラ」で説かれる理想の仏教国のこと。語源はサンスクリット語で「(幸福を)維持(もしくは用意、収集、養育)するもの」などの意味。Shambalah:シャンバラーとも。→シャンバラ (チベット)。シャングリラも参照。オウム真理教が日本で樹立しようとしていた祭政一致の専制国家構想については、日本シャンバラ化計画を参照。
上の文中に”シャングリラを参照しろ”という指示がありますので、参照してみました。
(Wikipediaより)
シャングリラ(シャングリ・ラ、英語: Shangri-La)は、イギリスの作家ジェームズ・ヒルトンが1933年に出版した小説『失われた地平線』に登場する理想郷(ユートピア)の名称。ここから転じて、一般的に理想郷と同義として扱われている。
小説の設定ではチベットの未知の地域にある。ヒマラヤ山脈の西の果てを崑崙山脈のほうへ向かった辺りに、カラカル(Karakal)という名の8,500メートル以上の高峰があり、そのふもとの霧の漂う調和に満ちた谷間に、シャングリラという僧院が建っている。シャングリラに住む人々は普通の人々よりはるかに長生きし、老いる速さは非常に遅い。元は18世紀初頭にペローという名の宣教師が建てた僧院であったが、そこにラマ僧らが集まり、図書館やセントラルヒーティングなど最新式の設備が整えられ世界中の知識も蒐集する研究の地となった。
この小説により「シャングリラ」という言葉は有名になり、1930年代後半以後、ヒマラヤ奥地のミステリアスな永遠の楽園、外界から隔絶された地上の楽園というような語と同義になった。東洋の桃源郷とならんで理想郷の代名詞となり、東洋(オリエント)へのエキゾチシズムを駆り立てる語になった。また神秘主義の総本山と認知され、地球の中心にある理想郷のひとつアガルタの首都に通じるとも言われる。
チベットの古い聖典には、「Nghe-Beyul Khimpalung」という名で、シャングリラのような聖地が7つ登場する。そのうちの一つは、ネパール奥地のマカルーの麓の Makalu-Barun 国立公園の近くのどこかにあるとされる[1]。
(Wikipediaおわり)
前回の記事、チベットにあるといわれる理想郷(ユートピア)のことです。
この理想郷から名前を取ったのがシャングリラホテルです。
ヒトラーもそうですが、客家もチベットと繋がっていそうです。
下記はシャングリラホテルの所在地です。沢山有るので読み飛ばしてください。
(Wikipediaより)
シャングリラホテルグループを経営するマレーシア在住、ロバート・クオック(郭鶴年)率いるクオック・グループ。
彼は客家人です。
客家とは?
(Wikipedia開始)
主な居住地域は、中国広東省・福建省・江西省など山間部であり、梅州、恵州、汀州、贛州は客家四州と呼ばれる。在外華僑・華人としてタイ、マレーシア、シンガポールなどの東南アジア諸国に暮らす者も多く、華人の3分の1は客家人である。
台湾では北中部の桃園県、新竹県、苗栗県などを中心に居住し、ホーロー人(福佬人と言う場合は、特に福建省に出自を持つことを強調しており、閩北の者に疎外感を与えない様に配慮して言葉を用いている)に次ぐ大きなエスニック・グループを構成している。そのため、公共の交通機関などでは国語(北京語)、台湾語(福佬語)に次いで客家語の放送が行われることが普通である。また、台湾では世界で唯一の客家語専門テレビ局客家電視台があり、ケーブルテレビ網を通してニュースや文化的な番組を始め、ドラマや娯楽番組などの放送を行っている。
(Wikipediaおわり)
台湾では世界で唯一の客家専門テレビ局客家電視台がある?
以前の記事にも書きましたが、私は台湾人が大好きです。
台湾人も日本人が大好きです。
昔、台湾にある会社の社長にものすごくお世話になったのですが、人のもてなしがうまいし、細かいことは気にしません。
多分、彼にも客家の血が流れているのでしょう。
変な特徴を記憶しているのですが、牛を食わないことですかね。
牛は働く動物だから、殺してはダメという、人間の為に尽くしている動物に感謝するということを教えてくれました。
まあ、私はまだ食ってますが・・・
なんだか、出口王仁三郎のセリフを彷彿とさせますね。
獣の肉を食べるから、獣のような人間になんじゃぞ・・・云云かんぬん
この社長のオフィスの壁には般若心経が掛かってました。
世界紅卍字会(せかいこうまんじかい)は、1922年(大正11年)に中華民国の道院という宗教組織の慈善博愛の善行を行う事業執行の付属施設の一つとして組織された、道教系の修養団体及び慈善団体。戦前の中華民国では赤十字社に準ずる組織として活動した[1]。名称を略して「紅卍会」とも呼ばれる。
中華民国=台湾です。
日本が統治する前の台湾は清朝に支配されていました。
建国以来反清勢力の撲滅を目指して来た清朝は、「反清復明」を掲げる台湾の鄭氏政権に対しても攻撃を行い、1683年に台湾を制圧して鄭氏政権を滅ぼすことに成功した。だが、清朝は鄭氏政権を滅ぼす為に台湾島を攻撃・制圧したのであり、当初は台湾島を領有する事に消極的であった。しかしながら、朝廷内での協議によって、最終的には軍事上の観点から領有することを決定し、台湾に1府(台湾)3県(台南、高雄、嘉義)を設置した上で福建省の統治下に編入した。
台湾はこの時代から福建省の統治下になり、客家に支配される国になったということです。
まあ、その前から当然、オランダやスペインが来てますから、客家とうまくやっていたのでしょうが。
ちなみに、台湾という名前の由来は、台湾原住民がオランダ人を「Tayouan」(現地語で「来訪者」の意)と呼んだことから「台湾(Taiwan)」という名称が誕生したという説もあるらしいです。
みなさん、一度、日本に対する想いを消して、頭をからっぽにしてください。
そして、客観的に日本を観てください。
日清戦争以降、1895年から台湾は日本の統治下にありました。
明治天皇、大正天皇、昭和天皇と、3代の天皇が支配していたということ。
Wikipediaで調べるとわかりますが、大日本帝国日本(台湾)と出ます。
半世紀です。こんなに長期にわたり、台湾を支配していました。
台湾人は親日家が多いのですが、それは日本が日本人に対してしたように、日本のすばらしさを前面に押し出す事に成功した結果です。
台湾人に天皇を敬う心が生まれ、心を洗われ、天皇教に染まりました。
大本教は日本の皇室の一派である、始祖鳥の実行部隊の一つです。
紅卍会=大本教です。
つまり、その下部組織に大本教が有ったということなのです。
大本教はヒトラーを生み出す程の強力なパワーを持っています。
その後、日本が敗戦し、蒋介石によって現在の台湾になる訳ですが、日本の影響は強烈に残っています。
台湾は国として認められていませんね。
おかしな話ですよね?
何故、国にならないのでしょうか?
実は、台湾は現在でも、日本統治時代の勢力が力を持っています。
WBCでの台湾人の親日ぶりが目立ちましたよね?
日本統治時代の総督府が今でもあり、台湾総督府として使用されています。
大日本帝国の建造物を総督府として、今でも使っているんですよ。
ということは、大日本帝国の残党とみなされても仕方ないですね。
(名無し先生のコメント抜粋)
旧スペイン統治下由来の閥、米国由来の閥、台湾由来の華僑に見える、日本国旧陸軍の一部由来の閥と3派閥がフィリピンには存在する訳です。
(抜粋終わり)
台湾由来の華僑=客家、つまり、客家に見える日本の一部由来の派閥=大本ということです。
日本皇室=始祖鳥=緑龍会=大本教=紅卍会=客家=アジアの支配者
そして、緑龍会=大本教=チベット=ナチス=アメリカ南軍派=ヘッセン
見事にグルッと繋がります。
北朝鮮=オーム、豊田商事の持ち株会社=「銀河計画」。
北朝鮮のテポドンはミサイルの名ではなく、地名です。ロケットに書いてある名は「銀河」です。
北朝鮮の核兵器は日本製だということです。
ヒトラーも北朝鮮も彼らの創造物なのです。
つまり、ヘッセン派閥はこうして、世界のダークサイドを使い包囲している。
お得意の自作自演を繰り返し、それを預言や奇跡、魔術として人々を洗脳する。
現代社会に存在する、アラブの春、フリーチベット運動、プーチンに対するデモ、リビアのカダフィ殺し、ウォール街デモ、シリアの内戦、中国の反日デモ、尖閣諸島問題、竹島問題、さらにはフジテレビに対するデモ、新大久保の反在日デモまでもが、ヘッセンの自作自演と考えてみて下さい。
意外と簡単にその仕掛けに気付くのです。
しかし、ナチス第三帝国も、大日本帝国も、ソ連も潰されちゃいましたよね?
これは、それ以上のパワーを持つ勢力があるということなのです。
ところで、原田祖岳という曹洞宗の僧侶をご存知ですか?
軍国主義に協力した曹洞宗教団の中にいた坊主です。
お恥ずかしながら、今回は名無し先生の期待に添う事は出来ませんでした。
到達して欲しいところまでいけませんでしたが、これで今回の記事とさせていただきます。
それでは
原田祖岳はやがて、久邇宮良子女王(明治天皇即ち西郷隆盛の子供で、久邇宮家で養育された。その事が後に宮中某重大事件の原因となるが、関東大震災後に裕仁天皇の后となる。)と肉体関係を結び、良子皇后は原田祖岳の子“明仁親王”を生んだ・・・
天皇皇后両陛下は原田祖岳の胤、兄弟だった・・・かな?