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「虎ノ門事件」から「光市母子殺人事件」まで

明治維新以来、日本の支配者層に食い込んだ「長州閥」は、総理大臣からテロリストまでさまざまな人材を生み出してきた。そしてこの系譜は、初代総理大臣・伊藤博文から、光市母子殺人事件の被告人にまで続いている。光市の母子殺害の被告を長州閥テロリストの系譜に含めるのは、支配者層が犯罪を政治利用した経緯において、難波大助の事件と共通しているからである。

   1923年、大正12年に東京の虎ノ門で、摂政宮、つまり後の昭和天皇がステッキ銃で襲撃されるという事件が起きた。しかし狙撃は失敗し、難波大助は現行犯逮捕された。これが世に言う、「虎ノ門事件」である。この事件は治安維持法成立のために、政府に一つの口実を与えたことは確かである。そして一方で、光市母子殺人事件は、死刑廃止論の息の根を止める道具として利用されたのである。

   死刑廃止論というのは一般的に少数派であるが、念には念を入れてこれを潰しておきたいというのが、戦前からの司法省以来の国家方針である。つまり支配者層としては、国家の手で国民を殺す法的根拠を制度的に残しておきたいのである。

   ここで本稿が光を当てるのは、難波大助の故郷が山口県熊毛郡周防村(くまげぐんすおうむら)、つまり現在の光市であったことである。長州閥とは上層と下層から成る、いわゆる「マッチポンプ集団」である。そのために総理大臣からテロリスト、尊王主義者から共産主義者という両極端の人材を輩出してきたのである。つまり、下層の反体制派が上層の権力者に逆らう状況を作り出すことで、支配の口実を生み出すという巧妙な仕組みである。

   2008年に、厚生事務次官が殺害される事件が起きたが、あのときに行なわれたのもそういった同じパターンであった。そして長州閥の下層から、小泉毅(こいずみつよし・山口県柳井市出身)というポンプ役を担う「犯人」を出頭させてこの事件に片をつけた。

   こうしたカラクリの歴史的原点に位置する伊藤博文は、若き日には下層階級のテロリストとして暗躍したのだった。英国公使館焼き討ちを行ない、国学者・縞次郎の暗殺も手がけた。こうして彼が総理大臣になったことから、「両極端構造」の近代史が始まったのである。

   伊藤博文の出身地も現在の山口県光市である。
   そして難波大助が後の昭和天皇狙撃に使ったステッキ銃は、もとを正せば伊藤博文の持ち物であった。なぜ伊藤の私物のステッキ銃が難波大助の手にわたったかといえば、もとよりこの連中はみんな親戚だからである。

   伊藤博文は、もとは林姓の一族であり、本名は林俊輔である。
   父親の林十蔵が萩に出て来て、この地に多い伊藤・井上などの家の中から伊藤姓の足軽株を買った。こうしてテロリストの伊藤俊輔は、英国資本とのつながりを利用して出世を果たし、博文と名前を改めて明治政府のトップになった。総理大臣を務めた後に韓国総統府の初第統監になったとき、実家の親戚にあたる林文太郎を部下に置いた。この時に伊藤は、かつてロンドンで入手した護身用のステッキ銃を文太郎に譲っている。そしてこの林文太郎が親戚の難波家を訪れた際に、大助の父親である難波作之進にステッキ銃を譲り渡した。かくして、伊藤の持ち物であったステッキ銃が難波家に渡ることになった。

   マルクス経済学者の河上肇のエッセイ『思い出・断片』によると、このステッキ銃は、外見はまったくステッキにしか見えなかったが、折り曲げると精巧なピストルが現れる仕掛けになっていたという。そのステッキ銃は難波家の倉庫に保管され、後に大助が猟を始めたいと言って、父親に使用を許可された。もちろん大助はこの銃の来歴を知っており、それは伊藤公の遺品ゆえに父親の自慢の品であった。だからこそ大助は、摂政宮(後の昭和天皇)の狙撃において、この「長州の由緒ある武器」を使ったのであった。

   難波大助は、河上肇の論文に影響を受けて共産主義者への道を進んだ。
   そして河上もまた長州閥であり、岩国市の出身であった。戦後に共産党書記長になった宮本賢治もまた光市出身であり、彼と同じく長州閥のマッチポンプ構造の「左派」の役割を担ったのである。一方の難波家は、筋金入りの勤皇の家系であり、長州閥におけるこちらは「右派」の急先鋒であった。大助も勤皇少年であったが、衆議院議員だった父親への反発や、エリート家族のなかで1人だけドロップアウトするのである。ここまではよくあることだが、大助が人間凶器と化していくのは、そもそも彼のような「人材」を生む環境が長州閥には初めから用意されていたのである。

   河上肇の義弟には共産党活動家の大塚有章がおり、大塚は難波家の親戚で、家も近所だった。そして宮本賢治も、大助の兄嫁の実家筋の親戚である。また長州ファイブの一人で後に宮中顧問官となった山尾庸三とも親戚だった。山尾の娘は木戸孝允の息子・孝正に嫁いでいる。その間に生まれた息子が、第二次世界大戦時の内大臣・木戸幸一である。まさにみんな親戚なのである。

   長州閥における親戚同士で、ある者は総理大臣になり、ある者は皇室の門番となり、またある者は京都帝大の左翼学者になり、ある者は共産党の大物になった。大正期には左翼運動が勢力を拡大したが、仮に共産革命が起きたとしても、長州の親戚が共産政権のトップに立つような仕組みがちゃんとできていたのである。これが同族人脈による分断支配構造というものである。

   虎ノ門事件の発生によって、ときの山本権兵衛内閣は総辞職した。

   大助の父・作之進は議員を辞職して自宅に引きこもり、難波家の地元の山口県周防村は、全村が謹慎を命じられた。摂政宮を警護する責任者だった警視総監・湯浅倉平や、警視庁警務部長であった正力松太郎は懲戒免官となった。大助は翌年に死刑となり、父・作之進は断食を続けて半年後に死んだ。それは事実上の餓死自殺だった。

   しかしこの事件で政界はさぞ混乱しただろうと思われたが、当時の報道ではそうでもなかった。なぜなら彼ら政治家にとっては、皇太子が狙撃されたことよりも、事件をいかに政治利用するかが唯一の課題であったからだ。虎ノ門事件で警察官僚をクビになった正力松太郎は、皇太子ご成婚の恩赦で復権しようと思えばできたが官界には戻らず、財界(米国)の援助で読売新聞社を買収し、事業を成功させた。言わば焼け太りである。

   虎ノ門事件がキナ臭いのは、この事件をきっかけにして、転身して歴史の表舞台に出てくる者が、いずれも札付きの人物であったことだ。たとえば難波作之進の選挙地盤は、同じ松岡洋右(光市出身)が引き継いだ。満州鉄道の理事だった松岡は、この地盤から選挙に出て政友会の代議士になっている。そして松岡の病没後、戦後に同じ地盤を受け継いだのが岸信介・佐藤栄作の兄弟だった。彼らの出世のために難波家がスケープゴートされたようにも見える。

   しかし難波家が一方的に長州閥の犠牲者かと言えば、そうでもないのである。
   難波大助には2人の兄がおり、長男の正太郎は事件当時には久原鉱業(株)に勤務していた。この会社は久原房之助(萩市出身)が設立し、後に義兄の鮎川義介(山口市出身)が日本産業と社名を変えた。つまり現在の「日産」である。大助の次兄の義夫は早くに養子に出されて吉田姓となっており、事件のときには三菱造船長崎支店に勤めていたが、戦後に新三菱重工業の社長になっている。

   皇太子暗殺未遂事件を引き起こした共産テロリストの実の兄であっても、三菱重工の社長にまで上り詰めるためには、そういったことは支障にならなかったようである。むしろ難波家出身であることはエリートであり、そのゆえに将来が約束されていた節があるのだ。長州閥というのは、政官財界に人材を送り込む同族集団である。そして難波家も、その有力な家系として機能していたのである。

   虎ノ門事件は、往々にして短絡的な若者の衝動的な行動のように思われがちだが、実は長州閥の正体を内部告発した事件という性格がある。大助は裁判の最終陳述で、「皇室は共産主義者の真正面の敵ではない」と述べている。「皇室を敵とするのは、支配階級が無産者を圧迫する道具に皇室を使った場合に限る」という。つまり支配者が皇室を操作して利権をむさぼっている構造を大助は見抜いていたのだ。彼の敵は、自分の生家を含む社会統治そのものだった。

   そして支配者層は大助の主張が世間に広まることを恐れ、事件の意味を矮小化させようとした。そのために大助を狂人扱いするか、もしくは反省の言葉を述べさせようとしたが、大助は最後まで、転向の意志を見せなかった。そのために、急いで死刑にするしかなかったのであった。

          文 小池壮彦

book 「真説 ニッポンの正体」 高橋五郎×小池壮彦 
ミリオン出版

          抜粋

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