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Structure exploration of the volcano

口永良部島火山の構造探査

 技術室(火山活動研究センター)
  高山鉄朗・福嶋麻沙代

1.はじめに
口永良部島火山の地下構造や浅部における熱水系の構造の解明を目指す目的で,2004年 11 月に火山体の構造探査が実施された.著者らはホストの立場である火山活動研究センター桜島火山観測所のメンバーとして観測に参加する機会を得たのでその観測内容などを技術員の立場から報告する.

口永良部島火山は屋久島の北西 14 km に位置していて,屋久島から 1 日 1 便就航している町営フェリーで行く手段しかなく,一般的に鹿児島市内からフェリーを乗り継いで行く場合約 6 時間を要する(図 1).島の大きさは 38.4km2 で,桜島の丁度半分の面積に約 180 名の人が住んでいて,主だった産業は牛の牧畜である.

1-1. 噴火の歴史
記録に残されている最古の噴火は 1841 年である.桜島が大噴火した 1914 年(大正 3 年)1 月にも時を同じに活動している.その後活動を繰り返す中,特に 1933 年から 1934 年(昭和 8・9 年)に掛けての活動では,噴石により火口の東にあった七釜部落全体が焼失し,多数の死傷者を出している.

近年では 1966 年(昭和 41 年)11 月に負傷者を出す噴火を,また,1980 年(昭和55 年)9 月には,1945(昭和 20 年)年に噴火して形成された新岳火口東の爆裂火口(長さ約 800m)で水蒸気爆発が発生し多量の火山灰を出している.前後するが,著者の高山がこの火山と付き合いだしたのは 1968 年(昭和 43 年)12 月からの噴火活動の時からで,実に 36 年間経過した今,時の重さを感じることである.

1-2. 現在の常時観測点
火山活動研究センター桜島火山観測所では 1991 年から新岳火口の西方 0.4 km の地点に地震計を設置して火山性地震の常時観測を始めた.設置当時は観測点から山麓の観測室まで無線伝送されたデータ(1 観測点 3 成分)をトリガー方式によりパソコンに取り込み,NTT加入回線を用いて桜島本所まで伝送していたが,現在は従来の点に加えて,2002年 7 月に山頂火口周辺に 3 点(400MHz 帯域出力 0.05W 有免許の固定局)を新設し,地震・傾斜,および噴火に伴って発生する空気振動の観測をWINシステムにより実施している.

また, GPS 観測は 1995 年から他の火山島と同時に始められ,既に 10 年近いデータの蓄積が行われていて,南西諸島火山の活動の関係解明も期待される.

2.火山体構造探査の歴史
火山体構造探査計画は 1974 年から国家プロジェクトとして進められている火山噴火予知計画の一環として 1994 年から始められ,これまでに対象となった活火山(図 2)は以下の通りで,末尾に観測点数と爆破のショット点数,およびダイナマイト量を記した.

1994 年 霧島火山群(鹿児島・宮崎県) 163 点 6 ショット 200・250kg
1995 年 雲仙火山(長崎県) 163 点 6 ショット 200・250kg
1996 年 霧島火山群(鹿児島・宮崎県) 288 点 6 ショット 250・300kg
1997 年 磐梯火山(福島県) 300 点 8 ショット 100・250kg
1998 年 阿蘇火山(熊本県) 298 点 6 ショット 200・250kg
1999 年 伊豆大島火山(東京都) 270 点 12 ショット 200・300kg
2000 年 岩手火山(岩手県) 330 点 9 ショット 200・250kg
2001 年 有珠火山(北海道) 288 点 7 ショット 200・250kg
2002 年 北海道駒ケ岳(北海道) 221 点 5 ショット 300kg
2003 年 富士山(静岡県・山梨県) 469 点 5 ショット 500kg
2004 年 口永良部島火山(鹿児島県) 165 点 19 ショット 10・100kg

過去 10 回の探査において地震観測点とショット点の数はまちまちであるが,それは火山体の大きさや地理的な条件あるいは予算の面からの制限で決まる.ダイナマイトの量は平均して 250kg 前後であるが,山体の大きな富士山では地震波が遠方まで届くように500kg と大量のダイナマイトを使用している.今回の口永良部島では 165 点の観測点に対して 19 ショットで,過去の探査に比較してショット点がはるかに多い.

また,ダイナマイト量は 100kg と少ない量であるが,山体が小さい場合はこのように少ないダイナマイト量でショット点を増やすことにより詳細な地下構造の解明が期待される.火山活動研究センター桜島火山観測所では学生の実習も兼ねて毎回参加している.

著者の高山は第 1 回から 4 回まで参加し,今回を含めて 5 回になるが,他大学の技術員の中には全て参加している人も数名いる.また,著者の福嶋は今回が始めての参加であるが,今後計画されている浅間山(2006 年)等にも優先的に参加することになるだろう.

3.準 備
口永良部島での構造探査においては,実施年度の 1 年前から準備が進められた.まず実施時期の第一条件としては台風時期を避けることである.島に渡ってから台風が来たら日程そのものが大幅にずれ込んで場合によっては島全体が食料不足に陥ることもありうる.それらを考慮して実施日を 2004 年 11 月初旬に設定し,そこから逆算して作戦が始まる.

3-1. 観測側線とショット点(現地において)
一般的に観測点は道路沿いに設ける.国土地理院発行の 5 万あるいは 2.5 万分の 1 の地形図に記載された道路には大体その通りに配置できるが,口永良部島では地形図に記載されていない昔からの登山道路も多くある.島の老人に聞いて最初の入り口さえ見つければ,後は道路としてのわだちが残っているので割りと容易に山頂にたどり着ける.

そのことを踏まえて 2003 年 12 月には主だった大学の関係者を募り,主に登山道路の開拓とおおよその観測点の位置を押さえるいわゆる側線調査の作業が行なわれた.次にショット点の選定であるが,これは主催者側だけの判断で決まるものではなく,ボーリング業者(地質屋さん)の判断も大きなウェイトを占める.また,観測点との位置関係もさることながら,掘削や発破などを行なううえで周囲の環境調査も重要な要素になる.

土地の借用については主催者側の交渉になるが,ショット点の土地については出来るだけ町有地など公共性に属する所を選定することが基本である.2004 年 9 月中旬には全ての観測点の位置決定と,3 成分観測点においては地震計設置用の土台の作成が行われた.また,入札によりボーリング業者もきまり,10 名近い技術者と掘削用の大型機械なども現地へ輸送され,11 月上旬の本番に向けて始動を開始した.

3-2. 観測機器の準備(観測所において)
イ.地震計(L-22D マークプロダクト製,写真 1)シンクロスコープを使用して,地動(長・短周期)や極性のチェックを行う.ロ.データロガー(LS-8000SH 白山工業,写真2)実際地震計を接続して模擬スケジュールに
よるリハーサルを行う.スケジュールは PCを使って入力する.リハーサル後はデータロガー本体の内部電池と予備として接続する外部電池の電圧を測定して異常がないかのチェックを行う.

また, GPS の動作チェックに併せて,精度の高い時刻を得るための最新アルマナックの取得や予備の外部電池 BOX 作成なども行った.口永良部島へ車両を持ち込まない機関では宅配便を使い,期日内に機材を現地へ送り込んだ.現地では小中学校の体育館の一部を観測準備室に借用した.

3-3. 船便の予約
観測機器の設置など現地での移動は公用車(またはレンタカー)による.今回の観測では観測班だけでも口永良部島まで公用車 9 台と屋久島で手配したレンタカー6 台の合計 15台の車輌を持ち込んだ.町営船フェリー太陽の車輌航送は最大で乗用車 15 台である.

上屋久町より島民の生活路線であるフェリーのため,一度にこれだけの車輌を航送することはできないとの申し入れで,3 回に分けて航送する手段をとったが,屋久島までの中継航送を含め,送り側・島での受け取りそしてレンタカーの受け渡しなどの作業も 1 月前からかなりの時間を要した.

3-4.旅館や民宿の予約
島における 2004 年の構造探査実施については早々から上屋久町を通して島民にも通知してもらい,民宿などには出張の折り 11 月初旬には島の民宿と旅館は全て貸し切になることを言ってあったので大きな混乱は避けられると確信していたが問題が持ち上がった.

島には既にボーリング業者の人達 10 名が 1 つの民宿に投宿していた.そのことも踏まえて探査の観測班要員は約 50 名があがっていたので,旅館や民宿など 7 つの宿に分散すべく宿泊表も作成した.しかし,7 月に 1 軒の旅館(最も収容人員が大きな旅館)と 8 月に民宿の一軒が店じまいをしてしまったため,急遽残る 5 つの宿に 10 名前後を割り振ることになった.

民宿の中には一人で切盛っている女主人もいらしたが,何とかお願いして事なきを得ることができた.しかし,1 件の民宿などは本来 10 名程度の収容容量しかないのにボーリング業者を含め 20 名近い関係者を受け入れてもらい,朝夕の食事もさることながら,20 名の毎日の弁当作りには大変難儀されたことであったろうと恐縮に思うことで
あった.表 1 に参加機関と人数を,表 2 に大学の技術職員名と所属を示した.

表 1 参加機関

北海道大学
秋田大学
東北大学
東京工業大学
東京大学地震研究
名古屋大学
九州大学
京都大学(阿蘇)
京都大学(桜島)
鹿児島大学
福岡管区気象台
鹿児島地方気象台
白山工業
応用地質

表 2 技術職員参加者名と所属

前川徳光  北海道大学火山研究観測センター(有珠火山観測所)
鈴木敦夫  北海道大学火山研究観測センター
平田安廣  東京大学地震研究技術部総合観測室
辻浩    東京大学地震研究技術部総合観測室(小諸火山研究施設)
奥田隆   名古屋大学地震火山・防災研究センター
吉川慎   京都大学火山研究センター
井上實之  京都大学火山研究センター
平野船一郎 鹿児島大学南西島孤地震火山観測所
高山哲郎  京都大学防災センター(桜島火山観測所)
福嶋麻沙代 京都大学防災センター(桜島火山観測所)

4.発破とショットマーク
4-1.発破の概念
発破の全体像を模式的に示した.今回の探査で最も深いボーリング孔は 72mであった.その最深部には 100kgのダイナマイトに 5 個の雷管を埋め込んでいる.ちなみに,ボーリング業者では雷管を埋め込んだダイナマイトを親ダイ,埋め込まれていないものを増ダイと呼んでいる(図 3).

図 3 発破作業の模式図

4-2.ショットマーク回路
地震観測で最も重要な項目の一つが時間,つまり地震の到達時間であるが,構造探査ではGPS時計が標準になっている.探査に使用されている LS-8000SH(白山工業)はGPS受信機を装着していて高精度の時間管理を行なっている.図 4 から,プラスタで起爆したら本来の雷管と同時に捨雷管も破裂して通電していたケーブルが切断されてデータロガーへ記録されていた 1.2Vの電圧は 0Vに下がる.この 0Vに下がった時刻が発破の時間であってショットマークと呼んでいる.

5.観測システムと設置
5-1.観測システム

図 5 観測システム

構造探査の一般的なシステムを図 5 に示した.データロガーには地震計(観測点によって,1 あるいは 3 成分),GPS(ここでは位置情報ではなく精密時刻を収得する),予備の外部電池(設置する機関によってアルカリ乾電池やリチウム電池,または,密閉型の小型鉛蓄電池)を接続する.

データロガーのスケジュールなどの設定は現地ではなくて,あらかじめ専用ソフトを用いて入力しておく.主な設定は以下による.測定モード:クロック周波数 3MHz,サンプリング間隔 4ms,フィルター60Hz
スケジュール:(発破スケジュールに合わせて)事前時刻校正時間,観測開始・終了時間,事後刻時校正時間

アンプゲイン:アンプゲインは発破点と観測点との距離やダイナマイト量で決めるが,今回の場合は発破点から 2・8・16・16 km に対して,それぞれ 30・100・300・900 倍とした.また,波形のスケールアウトを避けるため,あきチャンネル 2 を使い,2・10・30・100 倍の観測も行った.

5-2.観測機器の設置
車道沿いの設置には車を使うが,山頂へのルートは背負子で機材を背負い,2~4 名のパーティーを組んで設置しながら登山するため体力を必要とする.設置場所は事前に杭が打ってあるので場所の選定はしなくても良いが,地震計の設置点においては岩盤を探して石膏で固めたり,岩盤のない所では埋設する(3成分観測点については事前に地震計設置用の土台が固定されている).また,時刻収得のための GPS アンテナの設置は林などでは上空が開けている場所を選ぶことと,動物によるケーブルの切断を避ける工夫が重要である.(写真 5 - 7)

6.観 測
2 日半の観測点設置はカラスによる被害が少々あったものの,好天にも恵まれて順調なうちに 165 点の設置を終了した.また,設置 2 日目の夜には全体のミーティングももたれ,重大な問題もなく発破の日を迎えた.

6-1.発破指揮所
全てのコントロールを行なう指揮所には総監督(石原教授)と,指揮
者(井口助教授)以下地震監視者(発破の直前に自然地震が発生した場合には発破を中止するため地震の監視を行なう),ショット点との連絡係り(連絡には NTT 加入回線 4 回線と衛星電話,10W と 1W の無線電話等を用いた),緊急対応係り(連絡網にアクシデントがあった場合などに指揮所とショット点の中継などを担当)が発破 2 時間前(19 時)に配置について最終打ち合わせが行なわれた.

写真 8 で示すようにディスプレイの画面に,現在時刻(上段)・発破時刻(中段)・発破時刻までのカウントダウン(下段)を示すなどの工夫も行われている.

6-2.ショット点(初日)
担当者は決められた時間にショット点に到着したら現場の発破業者と所定の打ち合わせ後,まず指揮所との連絡網の確認を行い,各自の時計の校正・ショットマーク用データロガーの設置・地震監視用モニターによる波形の確認(自然地震の監視は指揮所だけでなく,ショット点近辺で発生する地震の監視も行い,地震が発生したらショット点でも発破の中止ができる)などを行い,指揮所に準備の完全確立の連絡を入れて発破の時間を待つ.

表 3 に初日の観測スケジュールを示した.

6-3.ショット点(2 日目)
2 日目には表 4 で示すスケジュールで観測が行われたが,観測方法などについては初日とほぼ同じであるので記述しない.(この表には記載しなかったが,スケジュールには初日と同じように各々のショットの 5 分後に予備のスケジュールも組み込んである)

6-4.発 破
各ショット点には発破時刻の 2 分前に指揮所から必要事項を確認し合う電話が入り,そして電話はその点の発破が終了するまで繋ぎっぱなしになる.また,ショット点では担当者が発破 1 分前からカウントダウンを開始し,双方の地震監視者からストップがかからなかったら予定の時刻で発破を行い,「発破成功・・・・」などと指揮所に通報する.

今回の場合は初日に 5 分間隔で 6 回の発破を行なったが,例えば第 1 回目のショット点の人は発破が終了しても決して大きな動き(例えば車の移動)をしてはならない.なぜなら,5 分後には次の発破を観測するための地震計が周囲に設置してあるからである.そのようなことから発破終了後の片付けは全ての発破が終了し,指揮所から撤収の連絡があるまで動けないのである.

6-5.データ回収と片付け

観測機器の撤収は基本的に設置した班(人)が中心になって行うが,観測が終了して解散した指揮所配備だった人も加わって 1 日半をかけ行った.観測準備室(体育館)に集められた観測機材の内,データロガーは各班の担当者が PC を使ってデータの吸い揚げを行い,本部のデータ回収担当者に各種メディアで渡す.一方片付けの人は機材の整備清掃・数量のチェック・貸し借りした機材の受け渡しを行いつつ,荷造りをして帰途の準備を行なう.

本部のデータ回収担当者は全ての観測点のデータを PC に収録した後,DVD に焼き付けて各参加機関に配布し,後に担当する記録読み取委員で初動の読み取りや,解析委員での解析処理等が行われる(図 6).

7.あとがき
口永良部島滞在期間中の話題等を書きとめて締めくくりにしたいと思う.

7-1.指揮所
指揮所は金岳小中学校のテントを借用して,口永良部島観測室に隣接して設営し,ショット点との連絡用臨時加入電話 4 台と,衛生電話や無線電話が設置された.指揮所は発破コントロールだけではなく,火口周辺の常時観測点から伝送されてくる地震データを監視して山頂設置班の火山活動に対する安全確保にも努める.また,島民の観測への理解を深めてもらうため,町役場出張所に設置したパソコンのディスプレイ上で地震波形が見られるような工夫も行った.

7-2.セミナー
すべての観測が終了した夜、島の公民館において島民対象のセミナーが実施された(写真 10).火山体構造探査によってどのようなことが解明できるか(京大・井口助教授),最近使われるようになった活火山の段階表示の説明(福岡管区気象台・井口技官),口永良部島火山の噴火の歴史と災害(京大・石原教授)の講演があり、参加された島民の方々と活発な質疑応答が交わされた.

参加された島民の方々にはセミナーの終了後に,準備していたデータロガーに使用はしたものの,まだ充分容量のある乾電池(単Ⅰ・Ⅱ)を喜んで持ち帰っていただいた.

7-3.食料調達班と屋久鹿
期間中,観測の合間をぬって港で“夕食のお刺身用”をと,魚釣りをしている人もいた.口永良部島ははじめにも書いたように牧畜の島で,専業漁業に携わっている人は数名で,思ったほど魚の豊富な島ではない.そのため,民宿によっては夕食のお刺身の乏しいところもある.従って我々はその釣り人を仕事をサボって釣りをしている遊人ではなく,“食料調達班(写真 11)”と呼び,横目で見ながら非難を浴びせるようなことはしない.そのようなとことで今回も大物を釣り上げて民宿のお上さんに喜ばれ,更に食卓に乗った大物を自慢しながら片手には“焼酎三岳”で顔をほてらせていた人もいた.

口永良部島には屋久島から渡ってきたと云われている“屋久鹿”が繁殖していて,島のいたる所で群れた鹿に遭遇したり大きな泣き声を聞いたりする.牧場で数十匹の牛?が餌を食んでいる「イヤ・・・牛ではない,鹿だ・・・」という光景もみかけた.禁猟になっていないのか島に渡るたびにその数を増しているように感じる.最初は珍しいこともあって興味を注がれるが,山中で鹿ダニに刺されて湿疹に悩まされた人もいたようだ.

7-4.打ち上げ
最後の夜はお世話になった学校の先生や出張所の方,また,島の世話役の方々も招待して公民館を会場に盛大な打上げが行われた.準備を手伝ってもらった婦人会の方の慣れた手つきで次々に調理された旬の伊勢海老や,その日の昼間に専門の漁師の方が潜って採ってきた黒鯛などのお刺身が簡易の食卓に変身した会議机にところ狭しと並べられた.

贅沢にも「伊勢海老は少々食べすぎて,今夜はいらない・・」などと言う人もいたようだ.一杯入った後のユニークな班別の活動報告やカラオケ,タコ踊りならぬ海老踊りや,最後にはフナ虫踊りまで飛び出した秋の長夜は,当然翌日には過半数の人が二日酔いの目覚めになったようである.現地滞在 9 日間の観測は 100%成功の元に終了した.帰路のフェリー太陽の待合所では関係者 40 数名に加えて一般客の人や,観測車輌 9 台の乗船手続きでこれまで経験したことのない混雑さであった.後始末の終了していないボーリング業者に見送られてフェリー太陽は凪の大隈諸島海域を屋久島へと足を速めていた.

7-5.想い出
・口永良部島での星空
口永良部島の夜は真っ暗です.星と月の明かりだけだと,夜はこんなにも暗いものなのだということを知りました.そして,その真っ暗な中で夜空を見たときには“息をのむ”という表現がぴったりの状態になってしまいました.

私の実家も,大阪の中ではかなりの星が見れる地域なのですが,口永良部島の星の数は比べものになりません.“雪は降らないが星は降る”と誰かが言っていました.本当に星が降ってきそうな夜空で,じっと見ていると目がおかしくなります.天の川を生まれて初めて見ました.

是非その星空の写真を撮りたかったのですが,長時間シャッターを開け,ピントや絞りを固定できる一眼レフか,数十秒~1分程度露光できるコンパクトカメラやデジカメでないと撮影できないと教わりました.

・湯向温泉
私がお世話になった宿の近くには,満潮のときしか入れない混浴の西の湯という温泉しかありませんでした.湯向温泉は宿から車で 30~40 分のところにあります.なかなか時間がとれなくて,最終日の船の出港前に大慌てで連れていってもらい 5 分程入浴してきました.“仕事柄,いろんな温泉に入ったが湯向温泉は 5 番目以内には入る”という好評と,“湯の花が浮いているよ”ということを耳にしていたのでとても楽しみにしていました.

温泉の建物はこじんまりとしていて,味がありました.しかし,花はどこにも浮いておらず,大きいアカのようなものがたくさん浮いていました.湯の花というものがどんなものか知らなかったので,私の頭の中では、菜の花が浮いているような温泉をイメージしていたのです.そのときは,男湯だけ花が浮いているのだなと勝手に思っていました.それでも,温泉はじんわりと体を温めてくれ,短かな時間だったけど幸せな一時でした.

http://dptech.dpri.kyoto-u.ac.jp/gihoh/gihoh06/12taka_fuku.pdf

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