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Kodama agency

上海・児玉機関のダイヤが自由党結党資金?

共産党の宣伝ではありません。
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http://www.jcp.or.jp/akahata/aik4/2005-02-12/faq12_01.html

児玉は、開戦直前の41年、国粋党総裁笹川良一の仲介で海軍航空本部の軍需物資調達のために上海に特務機関「児玉機関」を作り、物資の調達に従事、膨大な物資を入手。戦後、それをソックリそのまま自分の手にいれていました。

その額は「当時のカネで七千万円。それにカマス一つ半くらいあったダイヤと段ボール箱二十箱ぐらいのプラチナをそれぞれ半分ずつ」(大森実の児玉インタビュー『戦後秘史』に収録)といわれています。

日本の支配政党の結党資金が中国の人々を軍靴で踏みにじることによって作られたことは、戦後60年たってもけっして忘れてはならないでしょう。(喜)

 〔2005・2・12(土)〕

アメリカ:闇の支配構造と略奪戦争

岸信介はCIAの助けで日本の首相になり、支配政党の首領になった
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http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=158613
② 岸は巣鴨から釈放されると、まっすぐ首相官邸に向かった。官房長官の弟、佐藤栄作がスーツを用意して待っていた。「なんかヘンだね」と岸は佐藤に言った、「いまやわれわれは民主主義者だ」

③ 岸は「ニューズウイーク」誌の東京支局長、ハリー・カーンから英語の手ほどきを受け、米国の政治家を紹介してもらった。カーンはアレン・ダレスの親友で、CIAの対日パイプになった人物だ。

④ 1954年5月、岸は東京の歌舞伎座で政治家として復活を果した。岸は歌舞伎座に、米国大使館でCIAの情報・宣伝担当をしていたビル・ハチンソンを招いた。幕間、岸はハチンソンを連れ、日本の特権層の友人たちに彼を紹介して回った。それは岸の政治的な劇場となった。アメリカの後ろ盾があることを公的にアナウンスしたものだった。

⑤ その後、1年にわたって、岸はハチンソンの自宅の居間で、CIAや米国務省の担当者と秘密裏の会合を続けた。ハチンソンはこう証言している。「彼(岸)は明に、アメリカの少なくとも暗黙の支持を欲しがっていた」。この会合で、その40年間の日米関係の土台が築かれた。
 岸は支配政党の「自由党」を躓かせ、名前を変えて再建し、それを運営したいと言った。彼はまた、日本の外交をアメリカの欲望とフィットするかたちに変更することを誓った。その代わり、米国の秘密の支援がほしいと岸は頼んだ。

⑥ ダレスが岸に会ったのは、1955年8月のことだった。ダレス国務長官は、一対一で岸に、支持を期待していると言った。日本の保守層が一体化し、共産主義と闘うアメリカを支持できるかどうか
聞いた。

⑦ 岸は米国大使館の高官であるサム・バーガーに言った。若くて地位の低い、日本で知られていない人間を、連絡役にするのがベストだと。お鉢は、CIAのクライド・マカヴォイに回った。マカヴォイは沖縄戦の経験者で、フリーで新聞記者の仕事をしていた。クライドが来日してすぐ、バーガーは彼を岸に紹介した。これにより、CIAの外国政治指導者との関係のなかでより強固なもののひとつが生まれることになった。 


⑧ CIAと自民党の最も重要なやりとりは、情報提供に対する金(マネー)の支払いだった。マネーは自民党の支持の取り付けと、その内部の情報提供者のリクルートすることに使われた。アメリカ人たちは、若い将来性のある自民党政治家に金を支払っていた。彼らはのちに、国会議員や大臣、長老政治家になっていった。

⑨ CIAはイタリアでの失敗に懲り、アメリカの実業家を金の運び屋に使った。その中には、岸が建設しようとしていた自衛隊に売り込みを図る、ロッキード社の重役も含まれていた。
〔大沼・注〕後の「ロッキード事件」に登場する「ロッキード社」は、CIAに実は使われていたのだ! ロッキード事件が田中角栄追い落としを狙った、CIA陰謀であるとの見方に、またひとつ、傍証が出た。

⑩ 1957年11月、岸は「自由民主党」の名の下、保守勢力を糾合した。自民党の指導者として岸は、国会に議席を持つ人間をリクルートし、彼の配下に入れる工作を、CIAに許可した。

⑪ 政権トップに登り詰める中で岸は、安保条約の改定をアメリカ側に約束した。岸との連絡役のCIAのケース・オフィサー、クライド・マカヴォイは、戦後日本の外交についてレポートすることができた。

⑫ 1957年2月、岸が日本の首相になる日、国会で安保条約にかかわる死活的に重要な手続きが行われる予定だった。これについて、マカヴォイは、こう証言した。「岸とわたしはその日のクーデターを流産させた」と。マカヴォイはさらにこう語った。「アメリカと日本は、合意に向かって動いていた。これを日本共産党は特別な脅威を感づいた。投票が行われるこの日、共産党は国会で反乱を起こす計画を立てた。このことをわたしは、わたしの情報源の、左翼の社会党の本部員の通報で知った。岸は天皇に謁見する予定だったが、わたしは緊急会談を申し入れた。岸はモーニングにシルクハット、縞のズボン、コートの出で立ちで、秘密の会合場所に現れた。わたしは岸に話す権限を与えられていなかったが、岸に共産党が国会で反乱を企てていると教えた。国会の慣例では、午前10時半か11時に、食事などのため審議が中断することになっていた。岸は休憩と取るなと自民党の国会議員に命じた。自民党議員以外の議員が退席したすきに、自民党は彼らだけで法案を採決し、通してしまった」

⑬ 1957年6月、岸はアメリカを訪問、ヤンキースタジアムで始球式を行い、白人専用のゴルフ場でゴルフをした。岸は新しい日本大使に決まっていた、マッカーサー将軍の甥、ダグラス・マッカーサー2世に、もしアメリカが権力基盤強化の手助けをしてくれれば、日米安保条約は国会で成立するだろうし、高まる左翼の潮流も取り除くことができると語りかけた。岸は、一連の内密の支払いではなく、CIAによる財政的支援の恒久的な財源を求めた(Kishi wanted a permanent source of financial support from the CIA rather than a series of surreptitious payments.)。

⑭ アイゼンハワー大統領は自民党の有力者へのCIAの金の支払いを承認した。CIAの役割を知らない政治家は、アメリカの大企業からの金だと思い込まされた。CIAの金はすくなくとも15年間、4代の大統領にわたって続いた。

⑮ 岸信介とともに、戦時内閣で大蔵大臣を務めた元戦犯の賀屋 も釈放され、国会議員として復活した前後に、CIAによってリクルートされた。賀屋のCIAとの関係は、1968年にピークを迎えた。賀屋は、選挙戦を自民党に有利なものにするCIAの秘密作戦で中軸の役割を果した。

―― 以上が、ワイナー記者の暴露のハイライト部分である。
CIAの機密文書の解禁で、岸信介がCIAのエージェントであったことは明らかになっていたが、これほど深い関係だとは知らなかった。

 ~後略~


 

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